気づきのダンス

すべてはすでに決まっているの?

すべてはすでに決まっているの?

すべてはすでに決まっているの? しばしば聞かれるご質問です。 例えば、今自分が難病で苦しんでいたら、この苦しみは仕方がないことなのか? すでに決まっていてどうにもできないことなのか?と思うかもしれません。 ですが、非二元が指しているのは、この問いを超えた先なんですね。 すべてはすでに決まっているの?という質問は、どうしても時間と空間の意味合いが含まれてしまうでしょう。 ある意味運命論的で、あらゆることがすべて“すでに”決められていて、だから私の未来も決まっている・・・・みたいな。 また、誰がすでに決めているのか? それはなんとく神、純粋意識、宇宙意識などとなるのでしょうか? いずれにしても、時間を想定している時点で、「空」の観点は切り捨てら、100%現象という「色」の話だけを語っているものでしょう。 また、この質問で一番知りたいことは、おそらく“私の人生はどうなのだろうか?”、“私のやることに意味があるのか?”ということですね。 今日の夕ご飯に私が何を食べるのかも決まっているの? それじゃぁ、いろいろ献立を考えても意味ないの?みたいな。 しかし、個の自分を中心に世界を見たり、考えたりしても、自我ワールドを超えたものは見えてこないでしょう。というのも、自我はどうしても現象にしか目がいかないからです。 現象の中では、現象を生み出し、維持していく様々な法則があるに違いありません。でなければ、いつ月が地球に向かって落ちてくるか分かりませんよね。(あり得なさすぎる例でごめんなさい) ですが、現象の世界の法則がいくら解明されたところで、「空」の観点から見れば、それはどれも「色」というストーリーの世界です。 見る者(主体)と見られるもの(客体)は二つではないという、ノンデュアリティの言葉に立ち返ってみれば、それはイコール時間も空間もないということで、ここに時空前提のあらゆる法則が消えてしまいます。 でも一方で、主体と客体という分離の幻想が生み出す時空の現象を否定することもできません。 つまり、空と色が同時にあって、それは一つとも言えなければ、二つとも言えない。一番近いところで「二つではない=非二元」 そして、それが私たちの本質。法則があり、法則がないところ。 変化そのものなのに常にそこにいて、 時間をともなって起きるあらゆる事象であると同時に 時間のない常に静かで平和と受容の意識でもあります。 空の上にヘリコプターの音が聞こえてきたら、 それを聞いている客体としての(個の)あなたという経験者はいなくて、あるのはヘリコプターの音とそれに気づいている意識(=聞くという経験)だけ。 そして、ヘリコプターの音はそのまま「気づいている意識」であって、それらは決して分けることができません。 ヘリコプターの音を生み出す「気づいている意識」は、同時に一瞬の時間差もなく音そのものでもあるんです。 だからあなたは、ヘリコプターの音でもあって、「気づいている意識」でもあり、そこに一瞬一寸たりとも時間も空間も存在しませんね。 すでに~とか、誰が~とか、そういった言葉は当てはまらないでしょう。 すべてを決めるものと出来事がどうしても分けられないとき、私たちがせいぜい言えることは、“分からない”です。 でも、その“分からない”は、自我が不安や混乱を抱いてつぶやいているのではなく、生命に身を捧げた(サレンダー)信頼とピュアな信仰心♪ 信仰心とは、神など何か対象への信仰心ではなく、“分からない”ということがはっきり見えたとき、存在のすべてに対して勝手に起きてくる信じる心。 個としての自分が、全体である自分へ持つやすらぎとなつかしさ、そして安堵感。 私はどうなるの? 私の人生はどうなるの?  それらの思いも「気づいている意識」によって受け入れられ、それはまた「「気づいている意識」そのもの。 そこは、“私は?”という視線を超えた地平線。 そしてその地平線があなた♪   ☆☆☆ お知らせ ☆☆☆ 感情について体験的に学んでみよう。感情とは?感情解放とは? 2017年9月16日(土)~18日(月祝日) 3日間 JMET認定EFTプラクティショナー講座 in 大阪 詳細はこちら  

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悟りのストーリーからシンプルな観察へ♪

悟りのストーリーからシンプルな観察へ♪

どうしても残ってしまう誤解とは、例えば、 悟ったら、出来事や記憶やあらゆることに囚われなくなる 悟ったら、苦しい状態から抜け出せる 悟ったら、思考をコントロールできるようになる 悟ったら、すべてが明晰になる 悟ったら、ありのままに常にいられる 悟ったら、いまここにいつもいる これはぜんぶ今と違う状態になるというお話ですね。私もこの幻想(妄想?)に長い間、深くはまっていました。 ティーチャーたちにどれだけ違うと言われても、そして、頭ではわかったと思っていたけど、それでもはまっていました。 自我にとってこの「求める」という行為は、ほんと根深いなぁと思うのです。求めて、得て、そして良い状態になる。決して悪いことではありませんが、それしか知らないというのがたまにキズです。 そのため、ノンデュアリティのメッセージは“りんごは赤いです”みたいなレベルの話であるにもかかわらず、自我改善活動のツールとして解釈されてしまうこともしばしば。 また、自分がどれだけ真実に近づいたのかを、例えば、どれだけものごとに囚われているか、囚われていないかといった「自分の状態」によって図られたり。 自分の状態が基準であったり、自分が楽になることが目的であると、どうしても自我目線のままになってしまうでしょう。 で、自我目線のままメッセージを聞いても、誤解したり、意味が分からなかったり、“結局、二元で生きている自分で良いのさ”とちょっとやさぐれた気持ちになってしまうかもしれません。 もし誰かが“りんごは赤いです。バナナは黄色です。”と言って、それを確かめたければ、一番良いのは、おそらく実際に自分で「見る」ことでしょう。 そのとき、りんごについての本を事前にたくさん読んだり、または、りんごの定義について理解しておく必要もないですよね。 ただシンプルに「見る」ことで、明白に理解されるはず。 同じように、もし「私はいない」というメッセージを聞いたら、本当に「私」という主体がいないのかどうか、たった今、見てみれば良いですね。 私の体、私の思い、私の感情と当たり前のように言うけれど、「私」というそれらの所有者がほんとうにいるのかどうか? それとも、体と思いと感情があるだけなのか? 考えに行かないで見ること。 もちろん、見るのはこれだけではありませんね。なるほど「私」は見つけられないけど、どうしても「(個)の私」がいるように感じる、だからやっぱり「私はいる」ようにしか思えない・・・。 そうであれば、それもまた見てみる。どのへんに自分がいる感じがするの? 顔のあたり?胸のあたり?(体の中は内臓だけしかないし) では、そこにほんとうに「私」はいるの? それとも最後まで感覚があるだけ? 自我が絶え間なく、“ということは・・・”、“ということは・・・”と、考えてつかもうとするかもしれません。 その誘惑を静かに横に置いて、ただ見る。徹底的に。 そしてどうしても、「私」が見つからなかったら、じゃぁ、一体経験しているのは誰? それもただ見てみる。 この「見る」ということは、あまりにシンプルなため、求める行為も必要でなければ、何かに到達するというストーリーにもはまりようがありません。 この自我活動が最もないところで見えてくるもの、純粋意識、気づいている意識としての私、それが忙しい自我活動の中でいつも見過ごしていた真実への入り口になるはずです。 やがて真実が腑に落ちて、自分がそれそのものだと分かっても、自分の状態を良くしたいという衝動、自分をすごく気にするという思い、今に抵抗しようとする動き、未消化の蓄積された感情の爆発、さまざまな自我の動きがあるでしょう。 でも、それら一つ一つ、純粋意識によって理解され、あることが許され、そして“あゆかという私”の働きとして捉えられるのです。 あゆかがそれらを捉えているのではなく、受容という本質がそれを捉えている。 だから、“まだ囚われてしまうんです”という思いもなく、すべてはあって良いし、起きていることに抵抗もなく、ただ自然な流れがあるだけ♪ PS:同時に自我解体、自分を見つめて癒しを進めることもおススメ~☆

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生きる意味や価値を失ったとき

生きる意味や価値を失ったとき

自我を支えているものって何だろう? と、いきなりこんな問いから始まりますが、例えば、生きる意味、生きる価値、いきがい、目的といったもの。 これらは確実に自我にとって存続するための支えであるはずです。 なので、一瞥体験で自己の不在が分かって、虚無に陥る人もいますよね。自己の不在が分かった瞬間に、自我(=思考)が何もない意味のなさを解釈してしまうからです。 個人的にも何かの出来事で苦しんでいたときより、何も起きていないけど、生きる意味を失っていたほうがうんと苦しかったなぁと思います。 仕事に不満はないけど、いきがいや希望を見出せない、食べていけてはいるけど、なんで食べていかなければいけないのか分からない。 以前にも書きましたが、当時ベストセラーになっていた「存在の耐えきれない軽さ」という本のタイトルが、なんだか図星すぎて心に痛かったことを覚えています。 だから当時は生きる目的、意味、いきがいを必死で探していたものです。 ただ、当時の私が完全にスルーしていたのが、自分の本質だったのです。(個の)私がいて、私の人生があって、そして終わり・・・という認識だけ。 なので、自分が立っていられる何かがどうしても必要。そして、願わくは、立っていられるだけじゃなくて、良い人生でありたい・・・。 必死で求める意味、価値、目的。ところが、意味を見出した途端、今度はその意味を維持しなければいけない、実現させなければいけない、失ってはいけない。 何年も経って、抱いていた夢が実現していなかったり、または、自分が思うような形に人生がなっていなかったら、希望、期待の喪失とともに、いつの間にか生きる意味も消えて行ってしまいます。 それはうっすらと満たされない感覚として現れ、必ずしも本人が自覚しているとは限らないでしょう。 でも、その満たされない感覚は、また何かを求める衝動となり、ふか~いところでしっかり自我が思っているのは、 欲しいものを得ていれば幸せな人生、得ていなければ意味のない人生・・・。 期待通りになっていれば幸せ、そうでなければ生きる価値がない人生・・・。 ということ、ある意味分かりやすいですね。 引き寄せが流行るのも分かります。 でももし、こんなふうに求めて、得て、または得られなくて、求めて、得て、そして失って、そしてまた求めて・・・みたいなゲームにあきてきたら、グッドニュースは、ちゃんと抜け道があるということなんです。 抜け道とは、自分固有の人生への意味や価値を手放し、あるがままにあること。 手放すとは、文字通り、握りしめていた手を開いて、放すこと。ゆるめること、リラックスすること。捨てようと頑張ることではなく。 また、あるがままとは、絶望している自分のままとか、そういうことではまったくなく、ほんと~にあるがまま。 自分や自分の人生を思考やストーリーを一切通さずに「ただある」こと。ストーリーのないところにあること。 あらゆることが起きていて、すべてがあるけど、ストーリーだけがない「あるがまま」。 ただそこにあり続ける。 そのうち内側から狂おしいほどの叫び、こんなはずじゃなかった!何もかもが嫌いだ!憎い!ずっとずっと苦しかった!・・・、そんな自我の叫びが聞こえてくるかもしれません。 たくさんの涙が流れるかもしれないし、怒りや悲しみが通り過ぎるかもしれない。 自分がどれだけ自分に期待と否定の両方を持ち続けていたのかも分かるかもしれない。 でも、なにもせずにただそこにあり続ける。 おびただしい量の思いや感情を持った「“私の”生きる価値、目的、意味」がほんとうにストーリーだと分かるまで。 ストーリーだけど、それは実は自我そのもの(自我=ストーリー)であって、決して否定するものではなく、ただ手を放しただけ。グーで握りしめていた手を広げるかのように。 そしてそれは、目覚めの始まり♪ 抜け道へのスタート地点。 こう書くと、“目覚めて、そして生きる意味がなくても楽に生きる方法”というハーツ―として聞いてしまう人もいるでしょう。そしていつの間にか、悟って楽になる私を目指すストーリーを生き始めてしまう。 究極の抜け道、逃げ場への道順は、そういったストーリーもなく、ただあること。 何の期待もなく、ただ静かに。 自我にとって物足りない場所が、いつか優しさを帯びてくるまで、 ただあってみる。 生きているのは「私」じゃなくて、「生命」であると見えるまで。(*^_^*)   PS:そして、今度は生命の「衝動」があなたを動かす♪ PSパート2:今何らかの喪失感や絶望感で苦しんでいる場合は、セラピーの方が早いでしょう。 ☆☆☆ 大阪ノンデュアリティと癒しのカフェ 【日時】2017年5月26日(金)18時半~21時 【場所】ハートンホール日本生命御堂筋ビル http://hall.hearton.co.jp/nissei/access 【参加費】5000円 【申し込みフォーム】 https://ws.formzu.net/fgen/S19064975/ 【大阪・問い合わせ先】若下かおり nondualseminar@gmail.com 会場側の都合で広いお部屋に変更となりました。 ので、申し込みだけして当日払いでも大丈夫です♪

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ノンデュアリティは人を救うの?

ノンデュアリティは人を救うの?

悟りやノンデュアリティは人を救うのだろうか? 実はこの問い自体がとっても自我目線ではあるけど、お釈迦さまの旅もそこから始まったわけで、自我の永遠のテーマなのかもしれません。 でも一方で、“ノンデュアリティは人を救うものではない”というメッセージも耳にすることでしょう。で、それはある意味まさにその通りです。 ノンデュアリティ(真実)は人を救うのではなく、人から目覚めさせるものですね。 自分がどう生きるのか?ではなく、自分という夢から目覚めるんです。 私の苦しみを和らげるものではなく、“私の”苦しみから目覚めさせるんです。 “私はなんだか生き辛い。(生きる意味って何?)” “私の体はこんなふうになってしまった。(どうして自分に起きたの?)” “私の人生はまったく思った通りになっていない。(私の何がまずいのだろうか?)” “恋愛の執着が手放せない。(自分はダメな人間だ)” “経済的な不安を抱えていてストレスだ。(なんだかんだ言ってお金がないと・・)” “病気の家族の介護が大変すぎる。(なんて人生なんだ!悲しい・・)” “最高の医者でも、自分の病気を治せない。(どこにも救いはない、絶望・・)” これだけ情報社会になっても、こういった問いに答えてくれるものは、今でもやっぱりどこにも見当たらないでしょう。 とりあえず、自己啓発やスピリチュアル、宗教、そして、ノンデュアリティ・・・。 でも、ノンデュアリティは、人を救うものではないと言われる・・・。 ですが、真実がもしこういった問いに手を差し伸べるとしたら、それは、すべて100%いつも受け入れられているということ。 あぁ、それなら知っている、何度も聞いた、目新しくない・・・などと自我は言うかもしれません。 でも、その無条件の受容は徹底的に静かなまま、有無を言わせず、真実だけが持っている圧倒的なパワーを見せてくるのです。 その受容のパワーに触れたとき、自然と抗う心は落ちていき、すべての緊張を手放して良いんだということが分かるでしょう。 私たちは、苦しんでいるとき、人生がうまく行っていないとき、深いレベルで自分や自分の人生をものすごく否定しているものです。 そして、その否定の下に“本当は幸せでありたい”という一縷の望みを持っているでしょう。 否定することも、幸せでありたいと願うことも、自我にとって当たり前の思いであって、もちろん悪いものではなく、というか、愛おしい声たちです。 それらの声をひたすら理解し、受け入れていると、もしかすると、聞こえてくるかもしれません。一番望んでいるのは、自分を明け渡すことだったと。 そして、そのとき握りしめていた一縷の望み中に、大きな緊張を自分がずっと抱えていたことにも気づくかもしれません。 自分や自分の人生がかかっている大きな緊張。自分の人生を良いものとしたい。愛おしく、健気な望みでもあり、でも同時に、握りしめすぎて苦しみともなる。 でも、もうそれも手放しても良いのだと知るでしょう。 あらゆる出来事も感情や思いもすべて、何一つ悪いことではなく、起きてはならないことなど何一つもない。 運命論でもなんでもなく、どんな苦しみも100%受け入れられていて、そこに操作しようとか、変えようとか、なんの判断もなく、ただものすごい受容の海がある。 それを目の前にして、“どうしたら良いのだろう?”という問い自体が落ちて、サレンダーという「答え」の中に転げ込むのでしょう。 問題が消えることもなく、あらゆる感情も湧き、様々な思いが横切る。でも、それらはもう明け渡されているんです。 私のものでもなく、誰のものでもなく、本質にゆだねられる。 それは個の夢の終わり、目覚めの始まり♪ PS:いつも書いていますが、今どうしても苦しいという場合は、セラピーをお薦めします。ぎっくり腰の痛みをノンデュアリティでどうにかしようとしないのと同じ。(*^_^*) ☆☆☆☆ 東京ノンデュアリティと癒しのカフェ 満席、キャンセル待ち募集中 日時:6月4日(日)13時半~16時半 場所:あうるすぽっと3F (有楽町線:東池袋) http://www.owlspot.jp/access/index.html 参加費:5000円 申し込フォーム https://www.form-answer.com/applications/4BKXF

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すべてを忘れてみる♪

すべてを忘れてみる♪

先日のノンデュアリティと癒しのカフェでの会話から思ったこと・・・。 悟った人、悟りを得るなどなど、「悟り」という言葉が発せられるとき、たいてい人は「悟り」についてのなんらかのイメージを持っていると思うのです。 そのイメージに自信があるかどうかは別にして、自我はいつもなにかイメージしたり、定義付けしたり、つかめる物にしてそれを追っかけるという性質がありますよね。 ノンデュアリティのミーティングでも、まず自分が何を目指すのか明白にしてから目指そう・・・という思いが無意識に走っていることもあるかもしれません。 とにかく「つかめる何か」や手がかりがないことには、自我はただ佇んでしまうのでしょう。(実はそれがグッド♪) 中には非二元警察と呼ばれる(笑)、悟りとは~~だ、自己の不在とは~~だ、非二元とは~~だと、ばっちり定義付けがされていて、それと少しでも合わないことを言っている人にピッピーッと笛を吹く人もいるでしょう。 ですが、イメージしたり、定義付けをしてしまうと、私たちが求めているものは、いつの間にか真実ではなく、そのイメージ、定義づけられた状態(空の状態、私がいない状態、常に平和な心の状態、思考がない状態、etc)になってしまいがちです。 でも、真実は何か?という質問を真剣に自分に投げかけてみると、分からないというのが正直な答えのはずなんです。 その正直さをベースにしたとき、探求は、なんらかのイメージや定義を追っかけるものではなく、分からない何かへ心が大きく開かれていくはずですね。 ちなみに、ダイレクトパスとは思考や概念を一切通さず、いまここにあるものをただ観察するもので、求めている何かはここには要らないんです。 思考や概念は、例えそれが正しかったとしても、結局、何かを追いかけるという今までとまったく同じ自我のパターンにはまったままであって、しかも、“私は分かった、見えてきた”というストーリーに組み込まれてしまったりします。 幸せになる、状況を変える、自分を変える、悟りを得る、引き寄せる・・・すべて何かを得よう、掴もうという行為ですね。ある意味自我はこれしか知らないんです。人生疲れるはずだ。 でも、もし、本当に求めているものが、捨てた先にあったとしたら? もし今、自分が知っているすべてを捨てなさい、何もかも! 自分が人間だとか、男だ女だとか、自分の名前もすべて! と言われたら? なにか怖い感じがしませんか? 寄って立つ場所がない気がしませんか? でも、どれだけ捨てても、どうしても否定できないものがありますよね? 経験の波、あるという感覚、気づいている意識・・・・ そこにただあってみるんです。 知識や概念、思考ではなくて、そのどうしても否定できない何かにゆだねること。 これが真実の入り口ですね♪ ☆☆☆☆ 東京ノンデュアリティと癒しのカフェ 5月は満席となりました。6月のカフェの日程はこちら↓ 日時:6月4日(日)13時半~16時半 場所:あうるすぽっと3F (有楽町線:東池袋) http://www.owlspot.jp/access/index.html 参加費:5000円 募集は、GW後に始めます♪ ☆☆☆☆ EFTプラクティショナー講座 指二本あればできる感情解放のツール♪ 安心、安全、でもとっても深い。 ゴールデンウィークに少人数で学べるチャンス♪ 

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愛とはネガティブを十分に感じられる場♪

愛とはネガティブを十分に感じられる場♪

明日から熊本へ行ってきま~す。ということで、ノンデュアリティと被災地における心の癒し。(なんか論文のタイトルみたいだ) 究極の観点からは、誰もいない、癒す人もいない、ストーリーはすべて幻想となるわけです。 なんとなく、ノンデュアリティのメッセージを発信している人は、ところかまわず「起きることだけが起きている」と振れ回っているみたいな誤解があるかもしれません。 ですが、そんな概念だけ振りかざしても、被災地に行けば、それが役に立たないどころか相手を傷つけてしまうかもしれないことはすぐに分かりますよね。 究極の真実であっても、それを概念化して言葉にして押し付けてしまったら、もはや害にしかならないことが多いものです。 では、そんなときは真実をすっかり忘れて、ただストーリーに埋没しておくのが良いのでしょうか? お話会でも、ヒーラーやセラピストさんから“自分の仕事に意味はあるのか?”というご質問をそれなりに頂きます。 でもその葛藤は、メッセージを頭で捉えていて、ハートで捉えることを忘れていることから来るのかなと思うのです。 アジャシャンティなども話しているように、ハートの目覚めやお腹レベルの目覚めなど、自我が真実に目覚めていく様相はいろいろでしょう。 主体と客体の幻想が落ち、「私とあなた」「私と机」「私と景色、音、匂い」ではなくて、ぜんぶが「I AMのわたし」であることが露わになったとき、ハートは勝手に緩み開いていきますね。 分離した自分を外界から守ろうとしていたハートが、全体性に開いていくんです。 そして開かれたハートを通して起きていることを見たとき、概念に邪魔されない言動というものがあり、概念に邪魔されない知恵というものがあります。 それは頭から生まれてくるものではなく、言葉なしに静かに見せてくれる智慧です。 例えば、愛する人を失って悲しんでいる人がいれば、その人の悲しみは受容されていて、その人は悲しんでいて良いのであって、悲しみをすぐさま取り除く必要がないことが見えてくるでしょう。 でも、つい私たちは、その人が悲しんでいるのを見ることが耐えられなくて、十分に悲しむことを許してあげる前にどうにかしようともがいたり、または、他の人を苦しませたくないと自分の悲しみを呑み込んでしまったりもするかもしれません。 でも、ハートはとてもシンプルで相手の悲しみも、それを見ている自分の苦しみも受容していて、十分に感じることが許されていて、そしてそれが成し遂げられる安心な空間がそこにあります。 ハートは、寄り添って、ただそこにいて、受容と安心な空間で支えてくれるんです。それは、すべてはすでに癒し(愛)の中にあるという真実の海なんです。 それが見えれば、あとは本質の流れに従って、悲しみは違うものに変化し、自分が何かに支えられていることが感じられるでしょう。 ただ、ネガティブな感情でいっぱいになっている自我にとって、その安心さや受容を見ることはかなり難しいものです。そもそも苦しんでいる理由が、ネガティブな感情に抵抗しているからで、その抵抗を握りしめながら、受容という正反対のエネルギーを感じるのは至難の業です。 なので被災地などででは、EFTを使って、セラピストが安心安全な空間を作り、トントン軽く経絡をたたきながら、感情を感じきってもらいます。 真実(愛)は、すべてに浸透していて、あらゆる形になりますね。人をなでる優しい手、強く引っ張っていく手、支える言葉、押す言葉、優しい眼差し、ゆるがない眼差し・・・・。 緩んで開いたハートを通して、その人なりの個性、その人なりの才能(ヒーリングでもセラピーでも、パン屋でも会社員でも)で現象というストーリーの中で真実の発露となれば良いのかなぁと思います。 さて、一か月を切ってしまいましたが、5月7日(日)に東京でノンデュアリティと癒しのカフェを開催しま~す。宜しかったら気軽にいらしてください☆ ついにで、EFTの宣伝もさせてください。(*^_^*) 今回は少人数です。じっくり教えてもらえるチャンスかも! ☆☆☆☆ 東京ノンデュアリティと癒しのカフェ 満席になりました。ありがとうございます♪ 日時:5月7日(日)14時~17時 場所:CTW表参道 http://www.cultureomotesando.com/access-map/ 参加費:5000円 お申込みフォーム ☆☆☆☆ EFTプラクティショナー講座 指二本あればできる感情解放のツール♪ 安心、安全、でもとっても深い。 ゴールデンウィークに学んでみませんか?

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“ある”が分かれば、“ない”が分かる♪

“ある”が分かれば、“ない”が分かる♪

ある意味よく分かりますが、ノンデュアリティ=「私はいない」のように思っている人もそれなりにいるようで、「私がいない」状態になれば良いのだ~と思っている感じのご質問をけっこう頂きます。 でもたぶんこの発想だと、状態や感覚を追い求める勘違いに陥ってしまう可能性大です。 「私がいない」であれ、「空(くう)」であれ、ある状態になるとか達することを目指すと、どうしても「そのようになる誰か」が前提となってしまいます。まぁ、たいてい自分。 また、私が私がいない状態になれば良いのだ・・・というのがすでに矛盾しすぎていますよね。私がいないのを私が確かめるみたいな。 でも例えば、ラマナ・マハルシにしても、エックハルト・トールにしても、彼らが示しているものは、“あなたはアイデンティティを間違えていますよ~”ということなんです。 つまり、なくそうとしている「私という感覚」は、体や思い、感情に付随しているものでもなく、またそれらに制限されているものではなくて、気づいている意識そのものなのだという理解です。 その理解が起きたとき、きゃっ、ここに誰もいないの!まじ~っ、コワッ!というのが見えてきますよね。 “Who am I? ”という有名な問いは、ダイレクトパスの始まりとも言われています。つまり、私は体だ、私は日本人だ、私は人間だ、私はセラピストだ、私は女だ・・・・というアイデンティティが本当に「私」なのか、ダイレクトに見ていくんです。 それらのレッテルをすべて取り去ったら、何が残るのか? そこには切れ目のない経験の波と「私という感覚」だけがあるはず。(経験者はいなく) そして、そこで終わらせず、「私という感覚」にただ留まる。「あるにただある」 これはまた、ニサルガダッタの先生が伝えてくれたこと。 つまり、まず真のアイデンティティを確立すること。 そうすれば、自己の不在も時空の幻想、主体と客体の幻想もあらゆることが自ずと見えてくるはず。 そして、あるにあり続けるとは、空(くう)にぼんやりとあり続けることではないことは一秒もしないうちに分かりますね。 空(くう)は、現象で満たされたダイナミックなエネルギーであって、時がないところにあらゆることが起きていて、それが止むことがない。 あらゆる現象がすべて自分であって、何も知らないものはなく、自我のハートが自然に緩んでいく。 ハートが緩んで開いていけばいくほど、「色」の微細さ、深さ、摩訶不思議に圧倒され、いかに何も分からないかが分かってくる。 と、同時に最も身近な自分の思いや自分の気持ちもその摩訶不思議さの一部であって、謎と永遠性に包まれた愛おしいもの。 “私がいないって分かれば、嫌な感情を感じないはずだ”という思いもそこではもう意味はなく、怒りも沈んだ気持ちもショックも摩訶不思議なダンスの現れ。 とはいえ、ここで気をつけなくてはいけないのは、“すべてはダンスなのさ~~”という言葉で、自分という豊かで深い「色」の現れをバサッと無視しないことですね。 つまり、自分のユニークで複雑な心の存在をきちんと見つめ、ケアしてあげること。 空(くう)の目線だけで、色である心の動きをないがしろにしないこと。ねじ伏せないこと。 空は色を含み、色は空そのもの。 空を確立すれば、そこは色で満ちた世界で、色を深く見つめれば、そこには空しかない。 どこまでも終わりがなく、すべてはただ不可思議な愛だけ。 あぁ~~、ただそれだけ。(*^_^*)   ※ウパニシャッドをまた訳してみました♪→★ ☆☆☆☆☆☆ ◎ご覧頂いた方も多いと思いますが、動画をアップしました♪ 気軽なノンデュアリティトーク・パート1 気軽なノンデュアリティトーク・パート2 ◎大阪ノンデュアリティと癒しのカフェ、会場が広くなりました! 気軽にいらしてください♪ ◎4月の東京ノンデュアリティと癒しのカフェは、満席となりました。 ◎5月の東京ノンデュアリティと癒しのカフェは一般募集いたします。 (ブログにも近々アップいたします!) ※一度お申込みいただいた方は、ご案内を差し上げます。 今後の開催案内ご希望の方は、こちらからお申込みください。

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いにしえがあなたの耳にささやく真実♪

いにしえがあなたの耳にささやく真実♪

今回は、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、ウパニシャッドを訳したので、それをご紹介させてください♪ あるきっかけで禅を覗いたらとても面白く、そうこうするうちにインドまで辿りついてしまいました。古典は、今まであまり興味がなかったのですが、読んでみるとシンプルで素朴な匂いがなんともたまらない。 読むというより、吸い込むみたいな感じ。 私の解釈などいらないかも~ですが、書いちゃおう。 私たちは自分が見ている、聞いている、話している、考えている、呼吸していると思っているけど、そこに主体(経験者)はなく、一切捉えることができない「それ」がその経験そのものなのだよね、ということです。 自我にとって分かりにくいことは、自分が経験していないのなら、「それ」が経験しているんじゃないのか?と、どこまでも主体を想定してしまうことかもしれません。 また、自我は経験している対象物、音や景色、思考、言葉に囚われすぎ、例えばそもそも「見る経験」など「経験」そのものがあることを見過ごしがちです。 または、物質主義的な考え方が深く刷り込まれているので、脳が捉える、目が見ているという発想から抜けられないかもしれません。 でも、脳や目は主体ではなく、臓器であって、それを活かしている生命がそもそもありますね。 また、いまここにあるものをダイレクトに見つめてみれば、あらゆることはあるけど、経験者だけが存在しないことが見えてくるはずです。 気づいている意識があって、(経験に気づいている意識) 経験があって、(見ること、聞くこと、考えること、感じること・・・) 経験されるものがある。(風景、音、思い、感情・・・) そして、さらにダイレクトに見ていけば、音と聞く経験は決して分けられず、気づいている意識とそれらも分けられない。 気づいている意識=経験=経験されるもの=「真の私」 ここには意識しかない ここには経験しかない そして、 経験されるものはすべて幻想(色)。 だから私はすべてであって、そのどれでもない。 真の自分は、意識そのもの、経験そのもの、存在そのもので、そして同時に気づいている。(being and aware) 真の自分は、体に制限されないもの。決して消えてなくならないもの。そして唯一思考でも目でも、耳でも感覚でも捉えられないもの。 つい長くなってしまいましたので、ウパニシャッドはこちらからどうぞ! ☆☆☆ ◎ご覧頂いた方も多いと思いますが、動画をアップしました♪ 気軽なノンデュアリティトーク・パート1 気軽なノンデュアリティトーク・パート1 ◎大阪ノンデュアリティと癒しのカフェ、会場が広くなりました! 気軽にいらしてください♪ ◎4月の東京ノンデュアリティと癒しのカフェは、 今回キャンセル待ちの方に優先案内させて頂きます。 優先案内希望の方は、3月のカフェに一旦お申込みください。

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マインドの苛立ち、それは真実への道♪

マインドの苛立ち、それは真実への道♪

私たちが“分かった”というとき、二種類の“分かった”があると思うのです。 一つは、言葉によって説明され、それを頭でなるほど~と分かった、というもの。 これは、マインドにとって極上に気持ちが良いはず。 すっきりした!目からウロコが落ちた!分かった!そうか! もちろん、目にウロコを貼ったままよりはきっと良いでしょう。 でも、反対につかめない、分からないという場合。マインドは非常に落ち着かないはず。 “起きていて起きていないって?どういうこと?どう見えるの?” (なんとかつかみたい、分かりたい、分からないもやもやが気持ち悪い・・・。) “私がいない”ってどんな感じ?どういう状態? (つかみたい、つかめれば、そこを目指せるのに!) マインドは何かをつかむことしか知らないので、つかめないものも必死につかもうとします。 なのに、ノンデュアリティが示しているものは、唯一つかめないもの。 マインドにとっては悪夢ですね。 そこでマインドがしてしまうことは、“たぶん、こういうことだろう”、“こういう感じだろう”というつかめるイメージを作り上げてしまうこと。 そして、いつの間にかそれを追ってしまう・・・。 でも、もう一つの“分かった”があると思うのです。 それは、頭を経ない理解。 例えば、夕陽が照らされる空の美しさにうっとりしているとき、その美しさは頭で捉えられているのでしょうか? または、マインドを通らないダイレクトな体験的な理解? ダイレクトで深い理解であるほど、説明するのが難しくないでしょうか? または、言葉にすると、なんだか虚しく感じられないでしょうか? 私たちが“言葉にならない”というとき、実は頭の理解よりもうんと深く“分かって”いませんか? 全身で捉えていませんか? マインドは追いついていないけど、全身で分かっていて、自分と感動の間に距離もまったくない。 悟りたいという言葉と真実を知りたいという言葉は、微妙だけど大きな違いがあると思うのです。 悟りたいという場合、悟りとはこういうもの、こういう状態というイメージがあって、それを得たい、そうなりたい・・という感じ。 そうであれば、悟りたいと言いながら、マインドがつかんだイメージを追っかけているだけですね。空の境地に達したい、苦しみがない状態になりたい・・・・。 でも、 “真実を知りたい”と言うとき、何が真実なのか分からないから知りたい、真実がなんなのかさっぱりイメージもできない、知らない状態を受け入れているオープンなスペースがそこにあります。 自我=マインドといって良いほど、自我にとって何かを理解する、イメージするということは、息するほど自然なことでしょう。 でも、そのマインドの癖の延長線上で真実を知ろうとするのは、いつまで経ってもマインドの輪の中。 知識やイメージをすべて捨ててみたら? 未知の世界へオープンになってみたら? なにも分からないことを受け入れてみたら? マインドにとってこれは恐怖でもあり、怒りにもなるでしょう。 なぜなら、マインドにとって蓄積された理解は、進歩であり、成長であり、真実へ近づいている証拠だから。それはまた拠り所でもあって、大切にしてきたものだから。 もちろんマインドは人間の夢には欠かせないツールであって、気づいている意識が生み出す魅惑的なダンス、タペストリーの一部。決して悪いものではないですよね。 それでも、マインドが満足しているということは、夢の中にいるということ。 すべてを捨てて、ただあってみる。 存在のありようをダイレクトに見る。 マインドが欲求不満に陥って、崩壊し、あきらめたところに、真実が優しく佇んでいるかもしれません♪   ☆☆☆ お知らせ ☆☆☆ 東京ノンデュアリティと癒しのカフェへの多数のお申込みをありがとうございます! 今回キャンセル待ちになられている方々みなさんメーリングリストに入れさせて頂きました。 次回の先行案内をお送りさせて頂きます。 (不要な方は、お手数ですが、nondualseminar@gmail.comまでお知らせくださいませ)

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ストーリーに巻き込まれてしまう・・・

ストーリーに巻き込まれてしまう・・・

それなりに頻繁に“だいぶ気づいている意識に寄り添えるようになったのですが、何かあるとすぐにストーリーに巻き込まれてしまいます~”というコメントなどを頂きます。 とってもお気持ち分かります♪ ですがもし、ストーリーに巻き込まれること自体が嫌なのであれば、たぶん、癒しのほうが早いでしょう。一つには、ボタン(抑圧された思いや感情)を抱えているから、それが反応してしまうので、そこを癒せば、自我自体が落ち着きますよね。 それはそれで価値が大いにあると思うのですが、こちらは非二元のブログなのでその観点から~。 で、ストーリーに巻き込まれてしまう一番の理由は、“私は何か?”が十分に確立されていないことにあるかなと思います。 例えば、前回から少し引っ張ると、今このブログを読んでいることに気づいていますね? その気づいているのは、あなたではなく、気づきの意識です。鵜呑みにしないで、よ~く観察してみてください。 実際、あなたが気づいているのではなく、あなたは気づかれている側です。気づきの意識は、あなたの思い、感情、体の変化にいつも気づいています。 あなたの思い あなたの感情 あなたの体 あなたがあなただと思っているあなたのすべては、いつも気づかれています。 人類の勘違いは、気づいているのが個の自分だと錯覚していることですね。 だって、今一人で部屋でこの音楽を聞いているのは私だけで、私だけが気づいているのだから・・・。分離のうまいトリックです。 このトリックを見抜くのは、思考を通さずにダイレクトに観察していくことでしょう。 (前回のブログに少し流れを書きました) よ~く観察して、気づいている意識に切れ目や空間はあるでしょうか・・・・? さて、最終的に思い、感情、体はありますが、やっぱり所有者であるあなたはどこにもいません。 でも、どうしても私感覚がある。私はいる。私はある・・・・。その“私”は、気づきの意識。私はある(I AM THAT I AM)。 その後に、あゆか(名前)だ、日本人だ、男だ、女だ、会社員だ・・・とレッテルつけて、その私があたかも個の私かのような錯覚が始まるんです。 しかし、思い、感情、体は変化しても、それに気づいている“私”は常にあるはずです。 この気づいている私をしっかり確立していくんです。 気づいている意識は変化に気づいているけど、一緒に変化しているでしょうか? どうしてこれがストーリーに巻き込まれる話と関係あるの?と思われるかもしれません。もう少し我慢してください。 気づいている意識は、時間の変化に気づいているけど、時間とともに動いているでしょうか? “私”である気づいている意識が確立されていけばいくほど、時間の幻想からも解放されていきますね。 というのも、時間も自我の苦しみを生む大きな要因の一つなんです。エックハルト・トールのいう「心理学的な時間」です。 個の私が生まれて、人生を生きて、そして死んでいくというストーリーは、時間の中にしか存在できません。 そして、それだけが実在だと思っていたら、そこで起きることは非常に重要性を帯びていきます。特に自分がどうあるか?自分の人生はどうあるか?は、一番の関心事になりますね。 もし、自分の人生でものごとがどんどん悪くなっていくだけだったら、生きる意味を見出せるでしょうか? 時間を生きているということは、ストーリーを生きているということ。そしてそこで自我が望んでいることは、そのストーリーが良い状態であること。 だからもしかすると、真実ではなくて、常に穏やかな状態、幸せな状態を単に求めているだけかもしれません。 でも、気づいている意識である“私”がベースになればなるほど、人生を明け渡すことは、小波が大海に身を任すことだと見えてきますね。(もともとそれしかできないのですが) 個の自分の人生を動かしているのは大海だから、来た波、起こる波、いろいろあるけど、大海が起こしているものを信頼しよう。 そして、時間のないところをベースにすれば、自分をなんとか良くしたい、自分の将来をどうにかしたいというストーリーからも解放されていきます。 他者の言動に動揺したり、出来事に巻き込まれるのは、それによって自分や自分の人生が脅かされると感じてしまうからです。(無意識のレベルのことが多い) でも、時間が幻想だと分かれば、あらゆるストーリーは、絶対的に永遠で時間のない“いまここ”の私によって気づかれていて、そして愛されていることが見えてくるでしょう。 なぜなら、絶対的に永遠で時間のない“いまここ”の私は、変化するストーリーそのものでもあるから。(空即是色) 長い話になってしまいました。 要は、あなたは大丈夫♪ということです。だは。 東京で3月25日(土)午後にノンデュアリティと癒しのカフェを開催します☆ キャンセル待ちとなりました。ありがとうございます。 今回はまた表参道に戻って、少人数でまったりと行きます。 宜しければぜひ遊びにいらしてください♪

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私がパソコンを見ているという錯覚♪

私がパソコンを見ているという錯覚♪

日本ではノンデュアリティの解釈がびっくりするぐらい様々で、自由といえば自由なのかと思いますが、ちょっと“いろは”に戻ってみたいなと思いました。 ということで、 「観察者と観察されるものという、二つがあるのではない」(非二元) つまり、私(観察者)と世界(観察されるもの)の二つではない。 ウパニシャッドから禅、クリシュナムルティ、ニサルガダッタ、ノンデュアリティ みんなが指し示している大切なメッセージ。 これは、ほんとうはすべてはワンネスでつながっているという意味ではなく、見るものと見られるものは、文字通り分けられないという意味ですね。 つまり、例えばたった今、 “私がパソコンを見ている”というのは錯覚だということ。 主体としての個のあなたが見ているのではなくて、また、その見る対象としてパソコンがあるのではないということです。 私、見る、パソコン、は分けられないということ。 私たちの多くの失敗は、それについて“どういうことだろう?”と考え始めてしまうことでしょう。 でも、太陽は東から昇り西に沈むと教わったとき、それについて考えるより、実際に観察するほうダイレクトな理解になるでしょう。 まったく同じように、あたかも自然科学の観察でもしているかのように、いまここを観察してみるんです。(ダイレクトパス) 体はある 思いはある 感情や感覚はある では、その所有者はいる? 観察してみませんか? 考えずに。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ う~ん、見つからないけど、私がいるという感覚がすごくある? そうであれば、それらの感覚を見つめてみませんか? ほんとうにその感覚の中に実体がある“私”がいるかどうか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 真摯に、時間をかけて・・・・・・・・・・・ では、次に、 見るという経験はある 風景はある では、見る経験と風景は分けられますか? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 初めからまとめてみます。 体はある 思いはある 感情や感覚はある そして、 見るという経験はある 風景はある そこに経験者である“私”はいますか? ・・・・・・・・・・・・・・・・・ もし、どうしても見つけられなかったら、では誰があらゆる経験のすべてに気づいているのでしょうか? 経験者なしに、経験だけがあって、経験と経験されるものは分けられなく、でも、気づいている・・・。ここで頭は停止するはず。 私がいるという刷り込み、脳が捉えているという刷り込み、目や耳が見たり、聞いたりしているという刷り込みのすべてを置いて、すっかり思考が静まったとき、そこにあり続けてみます。(無眼耳鼻舌身意) ちなみに、脳や耳、目、鼻といった体の器官はもちろんその機能を果たしています。でも、カメラも映像を捉え、レコーダーも音をキャッチします。人工知能も開発されてきました。 でも、それらは見たもの、聞いたもの、捉えたものに気づいているでしょうか? それらは、そもそも観察者と言えるでしょうか? また、耳も音をキャッチしていますが、聞く経験をしているでしょうか? やはりここで同じ問いに戻るのです。 経験者はどこにいる?  そして、誰が経験に気づいているの? めちゃくちゃ地味な話に聞こえるかもしれません。 でも、経験者と経験されているものが一つであると分かったとき、個の私だと思っていた私は、全体の私、気づいている意識の私、純粋意識の私だと見えてくるはずです。 そのとき、ずっと求めていたものが見つかるでしょう。 そして、生きる宝のすべてがここにあることも♪

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禅と父と許し♪

禅と父と許し♪

今日はすごく個人的なお話で失礼します♪ さて今、盤珪(ばんけい)の「不生禅」を英語版で読んでいます。なぜ、英語なのかというと古文が苦手だからです。 禅の美術も禅寺やお庭も大好きなのですが、今まで禅を深めたいという気持ちがあまりありませんでした。 というのも、昔から「偉そうなおじさん」が苦手だったからです。 つまり、私の頭の中では高僧=偉そうなおじさん。 もちろん、100%私の歪んだ解釈です。 そんなくだらない理由で手付かずでいたですが、 盤珪の「不生禅」を読んだところ、ものすごく面白い! 面白すぎる、この盤珪おじさん!(失礼、やっぱりおじさん扱い) ということで、今更ながら「盤珪」をネットで検索してみたところ、 「盤珪の不生禅と王陽明の良知心学」という短い論文を見つけました。 ものすごいショック!(後で意味が分かります) というのも、私の父は東京大学で中国哲学を教えていたのですが、 王陽明は、その父の大切な研究の一つだったのです。 恐る恐るその論文を読むと、王陽明という人物、そしてその教えに ものすごく興味を抱きました。 (※個人的にはウィキベディアの説明はいまいち・・・) そして、アマゾンで検索してみたら、父の翻訳本(伝習録)があったのです。父が亡くなってから、書斎にあった何百冊という本は、お弟子さんたちの手に渡りました。で、この本が実家にあるのかどうかはまったく分かりません。 そもそも私は父の本を読んだことが一度もなく、実は今も読めそうにないのです。それを考えただけで、涙が出てきてしまいます。 それは、父を偲んでいる涙ではなく、私の中にある葛藤の涙。 尊敬したい気持ちと反抗したい気持ち。後悔や怒り。 長い間、父の仕事に興味を示さないことで、支配的な父から自分を守っていたつもりの抵抗。父とは全然違う道を歩んできたつもりの抵抗。そんな抵抗があることさえ忘れていました。 でも、涙が教えてくれたことは、その抵抗はまだ生々しく生きていたのです。私の中にある父を許していない部分。未だに逃げたいと思っている緊張。 でも、今一つ分かっていることは、その抵抗もすべてすでに許されているということ。 そして、私はその許しを温かい飲み物を飲むように味わう日がすぐそこにあることも。 許しとは、自分はダメージを受けることができる存在だという幻想を溶かすエネルギー。(あなたは決して傷つかない) 近い将来、気持ちの良い公園で私は父の本を読むのでしょう♪ ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 盤珪の教えが、ものすご~くダイレクトパスだと感じた部分をほんの少し翻訳してみました☆ (古文で読んでいる方、私の現代日本語に目をつぶってください) 「あなた方がこちらを向いて私の話を聞いているとき、スズメがチュンチュン鳴く声が背後したとしたら、あなたはそれをカラスだと間違えたりしない。鐘の音を太鼓の音と間違えたり、男性の声を女性の声、大人の声を子どもの声と間違えたりしない。光明な智慧が見事に正しく働き、あなたはただ一つの間違えなしにそれらの違う音を聞き分けることができる。あなたたちのどの一人もあらかじめそれらの音を聞くと決めていたからその音を聞いたのだ、といえる人はいない。もしそうだとしたら、正しいことは言えないだろう。 あなたがたみな、こちらを向いて私の話に熱心に耳を傾けている。そのときあなたの頭の中には背後で聞こえるかもしれない音についての思いなどひとつもない。しかし、音を聞いたとき、聞こうとしなくても、あなたは音の違いを聞き分けられる。なぜなら、あなたは不生の仏心で聞いているからだ。」 ※不生の仏心=気づきの意識、純粋意識、本質、etc ※すべては自動的に起きていて、聞いているのはあなたではなくて、聞くが起きて、理解が起きていている。

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無知の知~何も分からない世界へ♪

無知の知~何も分からない世界へ♪

以前、私は長い間スピリチュアルな夢を見てきたと書きました。 スピリチュアル・レッスンという本まで出版しましたし。 私の魂を成長させる旅を生きること、これこそが真実だという夢です。 でも、一瞥体験をしたときスピリチュアルなストーリーからも目覚め、 魂はもちろん、次元、波動、二極を超える、現実の創造、自由意志・・・ ぜんぶ何も起きていなかったと知りました。 自分を支えていたものの崩壊であったと同時に、私が何かするという話し ではなかったことに大きな安堵もありました。 だから大切じゃないとか意味がないと言いたいのではありません。 そういう解釈の問題ではなく、単に見たままの話です。 ときどき、ノンデュアリティが見事にスピリチュアルストーリーの中に 組み込まれているのをみかけます。 でも、ノンデュアリティが指し示しているのは、それらで語られるものではなく、 それ以前のものですね。 椅子を見て椅子だとただ信じていれば、それはストーリーですね。 椅子はたんにレッテルであって、椅子というレッテルを取り去った ときに始めてありのままが見えます。 二極も思考がレッテルを貼っているだけ。 熱いと冷たいの境は誰がどんなふうに決めるのでしょうか? ぜんぶ思考の判断です。 解釈をやめたとたんすでにここが二極を超えた場所。 右とか左、上とか下、これらもすべて思考の判断ですね。 上下左右の解釈はあなた(体)がいる場所によって常に変化します。 自我は常にそうやって世界を把握しているものです。 でも、ノンデュアリティが示しているものは、レッテルが貼られる以前の いまここにあるすべてです。 思考が介入してきて、上だ、下だ、次元だ、二極だと解釈をし始める前のありのまま。 あなたは(もしあなたがいるなら)何か現実を創造したかもしれません。 でももし、思考が起きたことに何も解釈をしなかったら? “私は~~を現実化した”と言わなければ、そこには何が起こっているのでしょう? この壮大なストーリーの中に誰もいないのであれば(no one is out there by ACIM)、 一体誰が自由意志を行使するのでしょう? スピリチュアルなストーリーの中で“あなたは愛である”、“私たちは一つである” というのと、 ノンデュアリティが指し示す、“あなたは愛である”と“ワンネス”が違うものを 指しているのに気づいているでしょうか? ノンデュアリティが “あなた”というとき、あなたは不在であって、主体と客体もなく 本当の意味では、気づきの意識が気づきの意識に話しかけている。 (言葉の限界すぎてあきらめました・・・。) そして、“私たちは一つである”= We are all oneではなくて、ただ一つ。Just one。 私たちの不在。 自我は、どうしても自分がいることが前提となって、世界やしくみを把握しようとするかもしれません。 また、解釈することがあまりに当たり前すぎて、自分が解釈をしているということも忘れていることもあるでしょう。 […]

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普通が普通になったとき♪

普通が普通になったとき♪

目覚める前と後の違いについての質問をそれなりに聞かれます。 この質問自体がなにか悟りや非二元の特別性やメリットを期待しているようで 実は答えるのが非常に難しく感じられるんです。 とりあえず私の場合、そんなにはっきりビフォー・アフターはありません。 (徐々に目覚めたタイプですし、目覚めたのかどうかも?・・・・) また、真実が分かった!なんてこともとても言えません。 前よりもっと何も分からなくなったかもしれないぐらいです。 ただ、「私は何か?」は疑いようもなくはっきりしています。 すると自己の不在も時空の幻想もすべて何もしなくても自明となってきますね。 そして、普通のことがとっても普通になって、それがまさしく家に帰った感じ。 普通にすべてがあるという存在の香り。 普通に台所で水洗いして、包丁の音がして・・・・。 でも、どこかこそばゆい嬉しさがあり・・・・。 一つ一つがごく普通で、そして完結している。 机に乱雑に置いてあるもの、 風の音 壁に映る影 自分の吐息 ぜんぶがあまりに当たり前で、それ以上でも以下でもなく 完璧なままに起こりつづけている。 自我は形や時間にこだわるので、完璧という言葉に敏感に反応するでしょう。 えっ、この病気が完璧ということ? このお金がない状態が完璧? 私の苦しみも完璧なの? 戦争は、飢えは、世の中の不正は? ここでいう完結も完璧とは内容を指しているのではなく、そこに何一つ過不足がないということ。 風の音はほんとうはもっと大きいはずだとか、戦争はもっと早く終わるはずだとか何もなくて、 飛行機が空を飛んで、その音の長さも大きさもそれはそれで完結していて完璧。 すべてが徹底的に普通で、あれこれ言っているのは思考だけ。 「(個)の私がいる」という思いから、私たちはものすごく濃い投影のストーリーにはまっていき、 その目が見る普通は、実は解釈だらけの曇った普通。 自己否定のストーリーを私たちは意識上でも意識下でも、あらゆるレベルで信じている。 だから目に映っているのは、投影のストーリーであって、それそのものではまったくなくて、 ありのままという言葉でさえ、投影まみれで解釈される。 でも、ストーリーが落ちれば、すべては優しくて、なつかしく、過不足はどこにもない。 そしてそれがあなた♪ (*^_^*) 皆様、本年もどうぞよろしくお願いいたします♪   PS:自己否定は、あなたを分離した個として存続させる一番のストーリー♪

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ほんとうの自分探し♪

ほんとうの自分探し♪

死んだあとに意識があるってどうして分かるの? (死んだあとに意識があるの?) この質問の前提は、“私は肉体だ”である。 肉体の自分が死んでもその後“私”の意識はあるの? 肉体の自分が死んだら悟れるの?(私は悟れるの?) 私、私、私・・・・・ でも、そもそも肉体の所有者である私がいなければ? 一体、死ぬのは何? まずは、体の所有者を見つけてみませんか? 体の中に“私”はいる? 探してみよう。 体をどこまで切り開いても臓器や筋肉や骨があるだけのはず。 どこにも“私”は見つからない。 では、沸いてくる思いの中に“私”はいる? 湧き上がってくる感情の中には? じゃぁ、感情と思いの所有者は? もし、体と思いと感情を所有する“私”がいるのなら、 探せばすぐに見つかるはず。 体と思いと感情の総称が“私”だと思う人もいるだろう。 でも、それは“会社”や“学校”のように、単に呼び名でしかない。 (会社があるのではなく、建物や人がいる) もっと実体ある“私”を探し出したいのだ! だってこんなに強く私がいる感じがするのだから。 探せ!探せ!死に物狂いで! 本当の意味の「自分探し」(*^_^*) でも、どうしても“私”は見つからない ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ こんなに大切なはずの“私”が見つからない しかし!ここで大きな疑問が残る。 なぜなら、見つけられないのに“私”は確実にいるからだ。 “私”はここにいて、あらゆるものに気づいている。 肉体の変化や一つの思いが現れて去っていくこと、 ときに感情に呑み込まれてしまっていること。 あらゆることに気づいている。 私がいないのに、一体誰が気づいているの? あなたも私もずっとそれは、“(個の)私”だという勘違いをしてきた。 だって、私が一人部屋で音楽を聴いているとき、 それを知っているのは私だけだから、 私が考えていることを知っているのは私だけ・・・。 マイワールドに気づいているのは、分離した個のリトルミーだ・・・・。 嬉しくてジャンプしているときも、苦しくて部屋で一人泣いているときも、 リトルミーが気づいているだけ・・・・。 でも、リトルミー(“私”)はいくら探しても見つからない。 あぁ、なんて巧妙な分離の幻想だろう。ずっと気がつかなかった。 どんなに個人的な思いでも、それに気づいているのは、 リトルミーのあなたではなく、大いなるAwareness(気づいている意識)。 あなたはいない。 それをきちんと確立してみよう。 ヒントは“捉えられるものはすべてあなたではない” 呼吸も、瞬きの感触も、背中の温かみもすべてあなたではない。 唯一捉えられないもの。 気づいている意識。それが“私” そこが確信されたとき、リトルミーの幻想は消えて、 大いなる“私”が明らかになってくる。 “小さな”私ではなく、“I AM(私は在る)” […]

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容赦なき恩寵♪

容赦なき恩寵♪

人生が思い通りに行かないとか、スムースに行かないとき、 自分が悪いのだとずっと思っていた。 本当はものごとはうまく行くはずで、 誰もが幸せになれるように、私も幸せになれるはずだから、 きっと私が何か見えていないに違いない 私の癒されていない恐れが一歩を踏み出せないから? 私の気づかない思い込みが幸せを妨げているのかも? 解決できない私はダメだ、苦しんでいる私はダメだ、 ものごとを良い方向へ持って行けない私はスピリチュアル落伍者だ、 でもだんだん、解決できないものがある、うまくいかないものがあるということが、 しっかり捉えることができ始めてきた。 自分も他者もどんなに愛する人でも救えないことがあることも。 それは誰が悪いのでもなく、ただそうでしかなくて、事実は頑固だけど真実に満ちていた。 随分と長い時間を費やしたけど、私の中でなにかが成熟して行き、心は穏やかになっていった。 実はそれは恩寵だったと気づいたのは、ずいぶん後のことだった。 うまく行かない人生という名の恩寵 苦しみという名の恩寵 それは、人生はいつもうまく行くはずという夢からの目覚め。 それから、私の心は解決よりも降伏を求めるようになり、ものごとがうまく行くことよりも、 真実を忘れないでいたいと願うようになった。 「受容」という本質のエネルギーが私に微笑み、真実への目覚めが少しづつ水面下で準備されていった。 あぁ、私はずっと恩寵に導かれていたのだ。 非二元の真実は、自我の妄想(いつもすべてがスムースに行って欲しい)を肥大化させるものではなく、 そこから目覚めさせるもの。 それはほんとうに優しくて、同時にまったく容赦ない。 でも、それは無限の受容でゆるぎない愛♪ ☆☆☆ お知らせ ☆☆☆ “ノンデュアリティと癒しのカフェ” in 東京 2016年12月17日(土)13:30~16:30 キャンセル待ち募集中☆ “ノンデュアリティと癒しのカフェ” in 名古屋 2016年12月3日(土)13:30~16:30 残席わずか☆

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心のほんとうの逃げ場♪

心のほんとうの逃げ場♪

これほど明らかなのに、みながつかめないのは、 それは文字通り、確実にあるのに唯一つかめないから。 つかめるものしか知らないから、悟りもつかめるものだと思ってしまう。 悟りとは~~であると理解する、捉える、その状態になる・・ぜんぶつかむという話。 思えば、物心がついてからずっと私たちはつかめるものを描き、求めてきただろう。 幼い少女は自分が何かになったり、得たりできることを知っていて、 「私の人生」の夢を見る。 私は大きくなったら何になるの? 可愛くなれる? お金持ちになれる? ケ・セラ・セラ 恋人と一緒にいる時間 お願い、時が止まってほしい。 このままずっとこの状態が続いたら良いのに。 やがて私たちは気がつく 実のならなかった夢もたくさんあって、 実った夢も必ず去っていく。 生命の輝きに満ちた誕生もやがては死を迎える それでも、私たちは形あるもののなか、つかめるものの中に幸せを求め続ける。 あれが引き寄せられたら、 人生がどんどん良くなる法則を見つけたら、 お金に一生困らない方法を知ったら 状況が変わったら、 自分を愛せたら、 悟りを会得したら・・・、 でも、形あるものは必ず変化し、必ず変化するということは、 そこに実体はないということ。色すなわち空~☆ だから意味がないとか、求めるなとか、そういう話をしたいのではなく、 自分が幸せを求めているとき、ちょっと見つめてみませんか? 自分の思いの中のどこかに、 “そうなれば安泰”、“それが手に入ればとりあえず幸せ(それが続くはず)” といったものがないだろうか? はかなく去っていくと本当に分かっていて、私たちは必死に何かを求めるだろうか? 私(個の)がいつかどうにかなる(幸せになる、悟る、etc)というストーリーを全力で生きていないだろうか? もう一度それが良いとか悪いとかではなく、ただそれは苦しみを生みがち。 幻を実体だと信じれば信じるほど私たちは苦しむ。 言い換えれば、もしあなたが今苦しんでいるとしたら、 何か実体のないものを絶対的な事実だと思い込んでいるから。 変化するものを常なものにしようと抗っているから。 そもそも持続する幸せはかたちの中にないから。 だから、リラックスして、唯一つかめないもの、気づいている意識、全体、生命、etc, にただあってみるのも良いだろう。 あらゆる経験が去るなか、常にあって、変化しないもの。 つかもうとするのではなく、すべてを止めて、ただあってみる。 かたちの中での幸せをがむしゃらに求めるのではなく、 とりあえず自分の本質(気づいている意識)にただあってみる。 もちろん、そこから夢も情熱も沸いてくるだろう。すべては勝手に起きているから。 でももし本質が腑に落ちたら、夢は実現するものでも、または「私の幸せ」がかかっているのでもなく、 自分の中に現れる愛しいものの一つとなる。 人生は自分の中に沸いてくるすべてのものを愛する歌に変わるだろう。 夢、情熱、喜び、そして悲しみ、寂しさ、失望・・・・・。 すべてを全力で愛する歌♪ 執着と期待のない愛、受容。抱きしめて手放せる愛。 人生に夢を見た幼い少女は苦しみを知って、ここがホームだと思い出す。 ケ・セラ・セラ […]

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だから、ここにある!終わり♪

だから、ここにある!終わり♪

一見、やけっぱちなタイトルになってしまいました(笑)。 自我は動き回って、いろいろ考えたり、感じたりしているこの自分が“わたし”で、自分の目に見える世界が現実だとふか~く感じているから、悟りとか真実は、いまここに明らかになっている・・と、なかなか思えないでしょう。 だから、その自分がいつか空の状態になるのだとか、またはシフとして主体と客体がない世界が見えてくるのだとか、こことは別に時空がない次元があるとか、どうしても真実を今と違うどこかに想定しがちですね。 でも、ここが「空」であって、「主体と客体もなく」、そして時空がないんです。ここが! それをまず押さえないと、自我はずっと「今と違う状態」、「違う場所」を求め続けてしまうでしょう。 こうすれば、真我とつながれる、こうすれば「私がいない」状態になる、死んだらそれが分かる、高い波動につながれば、時空のない高い次元に移行できる・・・、などなど。 いろいろありますが、たぶん、今ある多くの勘違いは、一瞥体験などをしないと分からない、“解放”が起きないと分からないというものかもしれません。 でもそれらは、それがあったほうが真実が見えやすいということだけなんです。一瞥体験なしでも、解放が起きなくても、直接見つめていくだけで、自己の不在も時空の幻想も見えてきますね。 なぜなら、もうすでにここにいつも真実は明らかに、否定しようもなくあるから。すでにあるものを知るのに、どうして違う場所や未来(死んだら・・・、解放が起きたら・・・)という存在しない時を設定する必要があるでしょうか? 般若心経の出だしに「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空度一切苦厄」という一文がありますね。 ちなみに、現代語に直訳している英文を見たとき、めっちゃわかりやすい!と私は思いました。ので、英文もつけてしまおう。↓ Avalokitesvara Bodhisattva, while moving to the deep course of Perfect Understading, clearly saw that the five skandhas (the body, feelings, perceptions, mental formations, consciousness ) are all empty, and was saved from all suffering and distress. 「観自在菩薩が真実の完全なる理解に深く入っていったとき、五蘊(体、感情・感覚、認識、思考(意志)、意識)は、同等にすべて空っぽであるとはっきり見抜き、すべての苦悩から救われた。」 五蘊が空っぽだと見抜くためには、五蘊をただ深く見つめていく必要があるでしょう。また、これらの五蘊に同化していれば、当然それは見えてこないですね。 つまり、私たちは普段、考えや感情、体に完全に同化し、それらでものごとを認識しているから、真実はすでにいつも明らかになっているのに見過ごしてしまうんですね。 ちなみに、深く見ていく(瞑想する)とは、考えや感覚などを通さずに直に見る(ダイレクトパス)ということです。 私の先生(と勝手に呼んでいる)であるルパート・スパイラは、“考える行為(thinking)は何でできているか?”という質問を私に投げかけました。 考えが何でできているか?を考えて答えを出すのではなく、考えるという行為(考えている内容ではなく)をただ見つめるんです。 ルパートさんにうながされたまま、ただあるものを見ていくと、考えるという行為も考えも見事に空っぽであり、そして同時にそれは気づいている意識でもある!と、ある瞬間に全身で腑に落ちたのです。 もちろん、これだけで真実のすべてが分かったということでは全くありませんし、その後もいくつもの気づきを経ていきました。(経ています。現在進行形) […]

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受容の中に答えがある♪

受容の中に答えがある♪

自我が、“これは私だ”というとき、 それは必ず良いものであって欲しいと願う。 私の体 私の思い 私の感情 私の人生 きれいな容姿が良い ポジティブな思いや感情が良い 楽しいことがたくさんある人生が良い これは自我の生きる動機、発露であるとともに たいていの良くしようという試みには、今への否定があり、 だから苦しみももれなくついてくる 気づいている意識、空、純粋意識、全体、etcが “これは私だ”というとき、 体も思いも感情もすべて完全に自由になる 良い悪い、好き嫌い、レッテル、解釈、判断という 思考の枠からすっかり自由になる! 完全に自由になって気がつく、あっ、自由って 完全な受容の中からしか生まれないんだ・・・。 だから、 悲しみも 退屈さも 後悔も 迷いも 恨み、妬みも 失敗や間違い、損失も 病や事故も 欝や引きこもり、 貧困、世の中の不公平、 戦争や災害も すべてはあって良くて・・・、と書くと誤解を生むだろう 言い換えれば、それらはすべてすでにここにあって、 つまり、それらはあることが完全に許されていて、 そして、すでにあるものを否定することはできない(遅すぎ) だから、それらがすべてすでに受け入れられていることに気づいてみよう そして、その受容の静けさの中にただいてみる 受容とは、決してただ甘んじる、あきらめる、何もしない、受身になる という意味ではなく、無条件の愛という静けさと生命の発動がある場 思考で忙しく答えを出そうとしていると気づけないけど、 愛は必ず叡智を携えている 愛=受容=智慧=癒し 受容とはだから、否定や恐れではなくて愛が答えを出してくれる場 ものごとが本当に癒される場 何をしたいか、何をしたら良いか、自ずと現われてくる場 いい?これは待ちゲームだよ。急がないこと♪ 急ぐのは思考だから 受容がしっかり見えてくるまでじっと待とう それがあなたのなかに無限に用意されていると分かるまで というか、あなたはほんとうは受容そのもの だから、自分の中にあるものや起きていることと戦わなくて良いよね♪              ☆☆☆ お知らせ ☆☆☆ 12月3日(土)名古屋にて「ノンデュアリティと癒しのカフェ」開催♪ 詳細は近々アップいたします。(※名古屋、大阪は誰かが主催してくださる 場合のにみ開催しています) 実は密かに東京「ノンデュアリティと癒しのカフェ」も開催しています。 […]

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「色」を味わいつくす♪

「色」を味わいつくす♪

自我はけっこう自分をもてあましているから、 「空」への憧れが密かにすべての自我の中になあるのかもしれない。 自分が消えて、このうんざりする不幸感をチャラにしたい。 そして、こんな自分は真実とか愛には程遠いけど、 あらゆるものの「非在」、そこにこそ真実という救済があるのだ! 「空性」への憧れ。 そんなものがあるかもしれない。 だとしたら、「色(現象)」はまがい物? 真実を曇らす邪魔もの? 色即是空 空即是色 と言うけど、色(現象)は幻想であってはかないもので、 限りがあって、一時的なもの。本当は何も起きていないし、 結局「空」に辿りつくのだから、「色」を見つめても仕方がない・・・・。 だから「空」を目指すのだ! 「色(自我)」からの解放だ! でも、忘れてならないのは、空とは何もないという意味ではないということ。 空は、愛であって受容であって、智慧であり、静けさ、そして生命。 あらゆる現象(色)で隅々まで満たされている。 「空」をハートに言い換えてみたらどうだろう? マインドではなく、ハートを通して世界を見てみたら? ハートはものごとを解釈せず、レッテルを貼らず、定義づけも せず、ストーリーも作らない。だから時間も空間もそこにはない。 椅子と机とか、部屋の中の音、外の音、あちら、こちらという レッテル貼りが消えたとき、 そこには分離のない一連の現象があるだけ。 もしかすると、ハートのあたりにあらゆる感情や感覚を感じるかもしれない。 締め付けられている感じ、悲しみ、罪悪感、悔しさ、焦り・・・ または怒り、空虚感、自己嫌悪・・・。 マインドはうるさく判断し、それらの感情はあってはならないと 言ってくるだろう。 でも、ハートに寄り添ってみると、 すべてが静かに受容されている。 あらゆる感情は何一つ文句なしに、自由にどこに現われてもよくて、 100%無条件に受け入れられている。 そのまま寄り添い続けてみる。 批判や解釈から自由になった感情や感覚は、好きなように変化し、 大きくなったり、小さくなったり、場所が移ったり、形を変えたり、 そして、そのうち周囲のエネルギーに混ざっていくだろう。 でもまた新たな感情や感覚が次々に現れ、思いや記憶も出てくるかもしれない。 それでも、あなたはすべてに降参し、ただハートに寄り添っている。 すると、ハートと感情は決して分けられない、怒りと受容は決して 分けられない、愛と悲しみも分けられない・・・・・、 すべては愛からしか生まれていない! (ポジティブ、ネガティブの二極の崩壊) しかも、私はこのすべてを愛していたのだ! 悲惨な出来事もなにもかも! そのままハートに寄り添っていると、だんだん、ハートとは 気づいている意識の別名であると分かってくるだろう。 そして、自我の私はハートの中で現われては消えていく、愛おしい現象。 自己の不在を知って、はじめて本当の意味で自分を愛するということが 分かるのかもしれない。 色を味わいつくせば、「空」にしか辿りつかない。 でも、その「空」は愛と受容に満ちている。 こんなに近いところにあった愛、静けさ。 […]

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