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三浦海岸のエックハルト

三浦海岸のエックハルト

  エックハルト・トールの名前を目にすると、反射的に聖子ちゃんずが浮かんでしまう、あるいは青森のあの羽柴秀吉。本人たちは真剣なのだとは思うが、どうも真面目に受け取るのが難しい。 聖子ちゃんずについて言うと、三浦海岸フェスティバル (?) で歌っているのを小6だか中1だかの頃に見かけたことがあって、会場はだいぶ盛り上がっていた。盛り上がりという意味では、世界中で本が何百万部も売れているエックハルト・トールも相当なものではある。 ただやはり、本家と比べると「う~ん」となる。 こんなことを書いているのは、最近訳にとりかかった本でマイスター・エックハルトの説教の引用があったからだ。エックハルト・トールはマイスター・エックハルトからその名前を借りたというが、「ほら、全然違うじゃん!」と思わず言ってしまうくらい、その引用文はかなりズバッと刺さってきた。そして、しばらく響いていた。 それで、図書館で『エックハルト』(上田閑照著、講談社学術文庫) を借りてきて、説教部分を中心に読んでいる。まだ途中だが、しびれた部分をいくつか引用してみたい。  人は如何なるものをも求めてはならない。認識も、知も、内面性も、敬虔も、平安も、一切求めてはならない。ただひたすら神の御意志(みこころ)のみ求めなければならない。あるべきように正しくある魂は、神が自分に神性の全体を与え給わんことを願いはしない。また、与えられたとしても、魂は神が一匹の蚊を与え給うた時のようにそれによって何ら慰められることはないであろう。神の御意志によらずして神を認識しても、それは無である。すべては神の御意志のうちに在る。そこにこそ何か在るものがあり、それはすべて神に適い完全である。神の御意志の外ではすべては無であり、神に適わず、不完全である。(説教 一 「ひらすら神の御意志のみを」)  さて私は、未だ嘗て語ったことのないことを、今語りたいと思う。神は自分自身を味わい給う。そして、自分自身を味わい給うその賞味において、神はすべての被造物を味わい給う ― 被造物としてではなく、被造物を神として。このように、自分自身を味わい給うその賞味において神はすべての物を味わい給うのである。 (略)  神 (got) は生成する。すべての被造物が神と言うとき、《神》が生成する。私が未だ神性 (gotheit) の根底、神性の地盤、神性の源流と源泉のうちに在った時、何人も私に、私が何処に行こうとするのか、何をなしているのか、尋ねなかった。そもそもそこには、私に尋ねようにも何人も居なかったのである。私がしかしそこから流出した時、その時すべての被造物が《神!》と言ったのである。もしその時誰かが「兄弟エックハルトよ、何時お前は家から外に出たのか」と私に尋ねたならば、実は、私はたった今まで家の中に居たわけなのである。〔即ち、今はじめて外に居るのである。ということは同時に、今はじめて内と外の区別も区別として成立したわけである〕。 (略)  誰かこの説教をよく理解出来たものがあれば、その人に私は喜んでこの説教を捧げたい。もし此処に誰一人居なかったとしても、私は今の説教をこの賽銭箱に向ってでもしたに違いない。これから家に帰って、そして「私は自分の慣れた場所に居て、パンをしっかり食べて、それから神に仕えたい」と言うようなあわれな人たちも多いであろう。私は永遠の真理にかけて言うが、このような人たちは、いつまでも迷いつづけなければならず、貧と異郷のうちで神につき従う人たちが到達するところに決して至り得ないのである。アーメン。(説教 四 「神と神性 ― 神は生成し、そして還滅する」)  人が放下(捨離)し得る最高にして究極的なことは、神を神のために放下することである。聖パウロは神を神のために放下した。彼が神から得ることが出来た一切を放下し、神が彼に与えることが出来た一切、彼が神から受けることが出来た一切を放下した。聖パウロがこれらを放下した時、彼は神のために放下したのであった。そしてその時、彼に残され留まったものは、まさに、それ自身において自体的に自存する (istic sîn selbes) 神であった。すなわち、受け取られ獲得されるあり方においてではなく、それ自身においてあるという自存する自体性 (isticheit) における神が聖パウロに留まり現前したのである。彼は神に如何なるものも与えず、また神から如何なるものも受けなかった。そこにあるものは、一つの一(いつ)即ち一なる一 (ein ein) であり、一つの純なる一化である。ここに至って人は一箇の真なる人間、一真人(いちしんにん) であり、このような人には、神の存在に苦悩が生じ得ないと同じく、如何なる苦悩も生じない。 (略)  さて、このように神の意志のうちにある人は、神と神の意志であるところのもの以外を意志することはない。彼が病気であるならば、彼は健康であることを欲しないであろう。彼が正しく神のうちにある限り、すべての苦痛は彼にとって一つの喜びであり、すべての多様性は彼にとって純露なる一性である。まことに、地獄の苦がそこにあるとしても、それは彼にとって一つの喜びであり浄福であるであろう。彼は自分自身を空却し自分自身から脱却している。われわれが受け取るべきすべてのものからわれわれは脱却していなければならない。私の眼が色を見ようとするならば、眼はすべての色から脱却していなければならない。そして、私が青とか白とかの色を見ている場合、色を見ている私の眼の視作用、すなわち見つつある働きと眼で見られているところのものとはまさに同一である。私が神を見る眼は、神が私を見るその同じ眼である。私の眼と神の眼、それは一つの眼であり、一つの視作用であり、一つの認識、一つの愛である。(説教 九 「神のために神を捨てること」) 勝手に名前を拝借しちゃだめでしょとか、そんなこだわりがどうでもよく感じられて畏れ入ると同時に、大きな可能性がつねに目の前に広がっていたことに気づいて非常に救われる。

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リチャード・シルベスターの新刊が来た

リチャード・シルベスターの新刊が来た

  最近は、「非二元関係で面白い人出てないかなあ」とAmazonやYoutubeを物色することもあまりなくなって、本もほとんど読んでいない。 Kyle Hoobinという「新顔」を知り、ちょっと読もうとしたが、2ページごとに寝落ちする始末。Liberation Unleashedの本 (これ) もすっかり埃をかぶっている。 単純に飽きたのかもしれないが、Takuさんのブログの存在が大きい気がする。この分野では唯一毎日読んでいる。妙な感じに落ち着く。自分という「場所」で非二元の認識(とされるもの)を保有しておく必要などないことがわかる。グレッグ・グッドが『気づきの視点で〜』の本で、悟りが特定の場所にだけ存在していて自分には無いということが如何にありえないかを丁寧に説明しているが、Takuさんの場合、そのことの直接的説明も見事ではあるものの、それよりも、その知恵が誰かのものじゃないということ、それは誰かが抱えられるようなものではないことが日々のブログ記事全体から静かに確実に伝わってくる。 すると安心する。安心や理解という状態があってそれを獲得するというのではなく、ずっとあった安心と理解の存在に気がついてホッとする感じかもしれない。 これは、トニー・パーソンズやいろいろな人のミーティングに出ていた時期の感覚とは極めて対照的だ。当時はとにかく「自分のところには無い」というところに焦点が当てられまくっていた。見るところが違った。これはもちろん彼らの問題ではなく自分の問題で、思いっきり何かを投影していたせいで、それが偏在できるものではないという単純な事実に気づけなかった。 そんななか(どんな?)、昨日ナチュラルスピリットからリチャード・シルベスターの新刊『早く死ねたらいいね!』(村上りえこさん訳) が届いた。原書は2005年に出されたもので、今回のこれはリチャードの著書としては初めての邦訳になる。ちゃんと読めるかなと思いつつ、パラパラとめくっていたのだが、けっこう面白い。原書を初めて読んだのは多分トニーのミーティングに通い始めた時期だったが、当時はおかしな読み方をしていたんだろうなあと思った。 ふたつだけ引用してみたい。 すべての言語は疑わしい。この本では、以下の言葉は特に疑いを持って扱われ、引用符が付いていると思って読まれなければならない。これらの言葉に含まれている前提はどれも誤りなのだから。  マインド 人 過去 未来 今  その時 時間 場所 ここ あそこ  私 あなた 自分 選択 自由 昨夜、旧友とレストランで夕食をとっている夢を見た。勘定を頼んだが、済ませる前に目が覚めた。友人は僕の分まで払わされたのだろうか? 僕はリチャードのミーティングやリトリートに行ったことはないが、トニーのところで会った参加者の中にはリチャードをよく知っている人たちもいて、噂はよく聞いた。「先生業」を始めて以降もリチャードはトニーのハムステッド (ロンドン) の月例ミーティングにはよく来ていて、休憩タイム用の紅茶をかいがいしく準備していたという。(他の先生たちをけなしまくるトニーがリチャードについてだけは一切悪く言わないのは、そんなことがあるのかも?) 正直言うと、BatGapのインタビュー(これ) で少ししつこい質問に対してプリプリ憤慨しているのを見て、リチャードはちょっと苦手かなと感じていた。でも、完璧な人格を投影することがどれだけ宇宙的不可能であるかが少しわかりかけてきた今、そしてこの本を改めて日本語で読ませてもらった今、このリチャードという面白いおじさんはそのまま受け取ればよかったんだと気づく。ありがたいことです。 あとがきでは、訳した村上さんの覚醒話にも少し触れられていて、それも面白かった。あと本文デザインがクールな感じで、ちょっとうらやましい。笑 『早く死ねたらいいね!』 (ナチュラルスピリット 5月17日発売) 関連記事 リチャード・シルベスターのQ&A This Is It リチャード・シルベスター 失楽園と復楽園 リチャード・シルベスター 科学の限界 リチャード・シルベスター 紅茶とケーキ リチャード・シルベスター リチャード・シルベスターのインタビュー (2009年)

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伝わることの奇跡

伝わることの奇跡

  ちょっと前に、NHKで松岡正剛とコムアイの対談を見た。いかにもNHKの文化担当が好みそうな人選だなあと思いながら (「何かがありそう」感があるとすぐにひっかかる) 、なかなか面白かった。 コムアイにしか開けない松岡正剛の鍵が少し開かれたような感覚。その逆方向の動きもあったのかもしれない。松岡が春日八郎の話を出したときに、コムアイが全然知ったかぶりをしないのも楽しかった。松岡は「知らないのか」と少し残念そうだったが。 それで思い出すのは、ルパート・スパイラのリトリートでプレミアリーグの話になったときのことだ。食事中だったかミーティング中だったか今では記憶が曖昧だが、プレミアリーグの選手の超越的な動きについてルパートがコメントしたときに、そこに居合わせた人たちの中にそれを理解する人はいなかった。誰かが何か別のプロスポーツを例示して、同じように素晴らしいと言うと、ルパートは首を振って「全然違う。あの素晴らしさはわかる人にしかわからない」と半分冗談、半分本気で言っていた。 味わいを共有したいという願いが満たされないことがある。 コムアイの対談を見たあと、今度はNHKのプロフェッショナルで、知床でヒグマを追い続ける久保さんという猟師の話を見た。40年以上も猟師をしているというが、ヒグマは自分にとってどういう存在か、という質問をされたときの表情が強く印象に残った。 言葉で一応の答えはしていたが、それとは違う何かがその表情には表れていたように思った。それも、容易には共有できないものなのだろう。というか、絶対に共有できない。 昨日、ジャン・クラインのI AMの邦訳『われ在り』を送ってもらって (また役得)、パラパラと眺めていたのだが、ジャンは何を共有しようとしていたのだろう、と思った。それはこの字面から伝わるものではなかったのかもしれない。 ページ上の文字の連なりにハッとすることはたしかにある。最近もズンデルのある本を読んでいてふいに恍惚感が押し寄せてきて驚いたことがあった。でもそれは、文字が運んできたものだったのかどうか。福岡の修道女の方たちが訳されたその本は、文字ではない何かを伝えていた。そうも考えられる。 I AMは、1981年に出版されたNeither This Nor That I Amというジャン・クラインの対話集を編集し直した本なのだが、まったく違う本になっている。ジャン本人も含めて「改善された」と書いているのだが、どうしてもそうは思えない。何かが失われている。こんなことを書いたら怒られるだろうが、今度の日本語の本に至ってはほとんど別物で、数行ごとに立ち止まらせて沈潜させる何か、元の本にはあったその独特のエネルギーが失われている。 以前、ルパートの本の日本語版が出ることになったとき、本人から「お前は訳せないのか」と訊かれたことがあったのだが、ルパートの言葉から溢れる美を日本語に移す力も自信もまったくなく、すぐにお断りした。 それから、J・C・アンバーシェルの本についても、すごく好きだから訳してみたいという気持ちはある。でも、あれは無理だ、という確信もある。本の7割くらいはいけそうな気もするが、残りはまず無理だ。味わいが失われる。別の意味で変な味付けをして翻訳物として一応成立させるということはできるのかもしれないが、そんなことはしたくない。 ルパートも、プレミアリーグの一件ではすぐに黙って、それ以上説明しようとはしなかった。知床の久保さんの場合も、優しい人だから問いに対して何かの言葉は発していたが、言葉では伝わらないという諦めがあるのは明らかなように思えた。 共有するとはどういうことなのだろう。 * ところで、ジャン・クラインはアドヴァイタのマスターとして紹介されることが多く、リアリティの本質をインドで認識したこともあって、インド発の系譜が強調されがちだ。でも、彼の何冊かの本を読んでいて感じたのは、必ずしもそこにこだわる必要はないということだ。スーフィーやキリスト教の伝統にも親しんでいたようで (「親しむ」では言葉として足りないが)、定期誌 Listeningではその関係の文章も多く見られる。ミーティングの対話ではそういった質問が出なかったために語らなかったのだろうと推測できるが、それもまた対話の面白さであり、対話の限界だ。 ジャンのその関係の表現に関心がある人には、Listening 10号分を全部まとめた The Book of Listeningをすすめたい。 関連記事 ジャン・クラインのインタビュー  

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リック・リンチツの魂

リック・リンチツの魂

  3月15日に発売されるリック・リンチツの『あなたも私もいない』(No You and No Me) を発売前に送ってもらった。役得。 リックは4年ほど前に癌でこの世を去っているが、初めて彼を見たときの記憶は鮮明に残っている。2011年のSANDカンファレンスだったが、まだすごく元気そうだった。 そのときのことは、このブログでも少し書いたが (これ)、「覚醒」「目覚め」というのは個人が保持できるようなものじゃないということを軽やかに表現していた気がする。というか、その非個人性が全身から香っていた。壇上から語りながらも、その「上」とか「下」が幻であることが明らかになる場だった。 代替医療的な色彩の強い癌専門のクリニックを経営していた医者で、呼ばれたときにしかサットサンはしていなかった人だ。リックの師のサティヤム・ナディーンも「先生活動」をやめたあとは、自然のなかでの独居を続けているらしい。そういう一歩引いた感じに僕は弱い。 この本は、ミーティングでの対話を書き起こしたものに、付録という感じで対談が最後に付けられている。明記はされていないが、編纂を担当したキャサリン・ノイスさん(関連のブログ記事) が対談相手のようで、彼女がよくわからないジョークで勝手に笑っていて多少当惑させられる。録音を聞けば、ニュアンスがもう少しわかるのかもしれないが、ともかくあの対談をよく訳したなあと感心してしまう。 リックはまったく方法を示さない人だから、好き嫌いはもしかしたら分かれるかもしれない。瞑想しろとも、今ここに気づきを向けろとも、座れとも、座るなとも、ミーティングに行けとも、行くなとも、先生を探せとも、探すなとも、とにかく何も指図しない。 ガツンと来る一言、決めセリフは特にない気がするが、この本 (原書) はなぜか何度も手にとって読んでいる。本棚から取り出した回数でいえば、洋書ではベスト3に入りそう。ジョン・ウィーラーのすっきり感とロジャー・リンデンのいたずらっぽい笑みを足して、そこにレオ・ハートンの妥協のなさのスパイスを・・・って、邦訳書が出ていない人ばかりで意味不明ですね。 原書のカバーとまるっきり雰囲気の違う表紙デザインと、ちょっと微妙な感じの帯の言葉が気にはなるけれども、あんなに素敵な人がこうして一冊の本の形でメッセージをこの世に残してくれたことに感謝しつつ、おすすめしたい本です。 『あなたも私もいない』リック・リンチツ(3月15日発売)

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レベカ・マルーン発見

レベカ・マルーン発見

  このブログの存在をふと思い出し、今月は記事を書かずに終わるのかなと思いつつ、でも新しい発見もなければ、衝撃の一瞥もないし、まあいいやと考えていた。 2月の山梨は空気がすごく澄んでいて、朝日に照らされた甲斐駒ケ岳や八ヶ岳は「神々がおわすところ」という感じに輝く。これ以上何かを求めるというのは明らかにおかしい。探求? いらないでしょ。そんな気分になる。 本は面白いものが何冊か今月もあったけれど、非二元本はヒットなし (というか、読んでない)。一番良かったのはこれ。北欧のイメージがガラガラ崩れた。 非二元本は読んでないと言っても、Amazonで注文していたティム・フリークの Deep Awake という新刊はちょっと前に届いた。カバーデザインがポップで、ジャケ買いしてしまった本。ただ、読もうとしても数ページで止まってしまう。 ティムの場合は本よりもトークの方がはるかに面白い。そう思って、この本の出版前後にティムがロンドンのWatkins Booksで開いた会の模様をYoutubeで見た。(これ) 相変わらずのオーバーアクションを楽しみながら、ティムのキラキラの目を見ていて、急にある人のことを思い出した。 それで、もしかしたら見つかるかもと思って、彼女のファーストネームと当時彼女が住んでいたイングランドの都市の名前で検索すると、なんとすぐに見つかった。2012年のトニー・パーソンズのレジデンシャル (リトリート) で会った人で、その人のことは記事にしたこともある。(奇妙なのはどちらか?) タイミングよく去年ノンデュアリティ本を出していたらしい(This is God)。ウェブサイトも作っていて (ここ)、新刊の告知動画も載っていた。 英語が得意じゃない人はレベカの話している言葉の意味はわからないかもしれないけれど、雰囲気は伝わると思う。開始から01:35〜02:40くらいの感じは、ジェフ・フォスターの初期に似ていて、ぞくぞくしてしまう。トニーのレジデンシャルの帰りの乗換駅で、30分か40分ほど二人で話をしたのだが、そのときの表情そのままだ。 そのびっくりの勢いで、こうしてブログに記事を書きはじめた。 が、「先生活動はじめちゃったのね」という残念さをどこかで感じているのも事実 (まさか始めるとは思わなかった。それに先月はティルヴァンナマライでサットサンをしているようで、それも「いかにも」でがっかり)。立ち位置をそこに置くと、どうも変な要素が入ってくる気がする。特に生活のためにメッセージを発信しはじめるときの独特な変質は「もったいないなあ」と思ってしまう。彼女の場合はわからないが。 生活のためじゃなくても、「教える側」「伝える側」というポジショニングは特有の力学を生む。他の先生たちとの競争、差別化の必要も出てくるかもしれない。それにそもそも、「わかっていない人」の存在を想定するというスタート設定がどうなんだろう。 リック・リンチツが、覚醒からしばらくは「なんでこれが見えないんだ!? 本当は見かけと全然違うんだ。おい!オレの話を聞いてくれよ!君らには真実が見えてないんだよ!!」という感じが続いて、相当うざい人になってしまっていたと前に話していたが、「他者」が存在しているという認識が覚醒後もそのままになる場合もあるんだろうか。 まあ、自分のことを考えれば、おいしいコーヒーを売る店を見つけただけで有頂天になってブログに書きたくなるくらいだから、他人のことは全然言えない。それに、ルパート・スパイラを知った直後に彼の文章を毎日和訳していたのも、自分がしていた感じはなく、自分を通してそれが起こっていたといった方が近いから、世の「先生方」も単にお役目を割り当てられているだけということなのかもしれない。だから、「わかっていない人」の存在を想定した上でそれに対して何らかのアクションを起こしている、という見方自体が間違っているのかも。多分そうだ。 でも、レベカが先生活動を始めたおかげで、あのイッちゃってる目をまた見ることができたのだから、良しとしましょう。何度も見てしまうなあ。また会えて良かった。

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Amazonレビューレビュー。

Amazonレビューレビュー。

  本が好きだから、Amazonが日本で商売を始めたときはけっこう狂喜した。Amazonが薦めるままに本を注文していたら、年間で数十万円も買っていて驚いた記憶もある。 今はさすがにそういうことはない。「この商品を買った人はこんな商品も買っています」とか「よく一緒に購入されている商品」のところに「オッ」という本が並んでいても、すぐには買わない。まずはメモしておいて、それがたまってきたらジュンク堂など地元の書店に行って実物を見て、買うかどうかを判断する。結果、9割は買わない。 それでもAmazonには大きな魅力があって、それは早い配達ではなく (最近は山梨でも当日に到着したりするからびっくりするが)、レビューだ。 といっても、自分が訳した本に書かれた五つ星レビューを眺めてニヤニヤするとか、そういうことではない (するけど)。 「これはいいねえ」という本に出会ったときに、その本のAmazonレビューを見て、いい感じのレビューをピックアップして、そのレビュアーさんが書いた他のレビューを読む。誰でもやっていることだとは思うが、これがけっこう素晴らしい出会いにつながる。 つい最近の例だと、as it isさんという方 (レビューページ) 。非二元だけではなく認知療法や宗教など幅広くユニークなレビューをしていて、その人がハーディングの本のレビューのなかで、モーリス・ズンデルという名前に触れていた。 目にしたことがなかったから調べてみたが、だいぶ前に亡くなっているスイスの司祭だということだった。それがきっかけで、『沈黙を聴く』という素晴らしい本を知った。 さらに、その『沈黙を聴く』にすごく静かで奥行きのあるレビューを書かれているクロネコさんというレビュアーさんの存在を知った(レビューページ)。この方はかなりの数のレビューを書かれているのだが、エックハルト・トールやフランシス・ルシールの本にも、控えめでありながらなんとも言いがたい説得力が感じられるレビューを記している。 そのおかげで、エックハルト・トールの未邦訳本や、食わず嫌いだったティク・ナット・ハンの本をいくつか知ることができた。他のルートでは多分出会わなかったと思う。 それからミラーナイトという名のレビュアーさん (レビューページ) がいる。仏教、禅、中論などの本に丁寧なレビューをたくさん書かれている。たしか荘子の本経由でその存在に気づいたのだったと記憶しているが、その方のレビューで可藤豊文という人を知り、『自己認識への道』というとんでもない本 (いい意味で) を知ることになった。 Amazonのレビューシステムがなかったら、まず出会わなかっただろうと思う。本屋でも可藤豊文氏の著書は一度も見かけたことはない。 こういう出会いはAmazon.comやAmazon.co.ukでも当然あって、これまでに何冊も素敵な本に出会っている。(ジョーイ・ロットもきっかけはAmazon.comだった) ただ、必ずうまくつながるというわけでもない。たとえば、自分がものすごく気に入った本に、「この本は最高だ。非二元の本、悟りの本を今までに100冊以上読んできたが、これがあれば他はいらない」とレビューしてあって、「そうだよ、本当にそう」と思いながら、その人の他のレビューを読むと、それっきりになっている例。つまり、本当に探求が終わってしまったらしく、それ以降は家電製品やサプリのレビューばかりになっている。 それはそれでめでたく思わないといけないのかもしれないが、本好きとしては不満が残る。特に僕の大好きな J・C・アンバーシェルあたりについては、彼と同じくらい素晴らしい著者や本を誰か紹介してくれないかなあと、Amazon.comのレビューを定期的に覗きにいくのだが、皆無ではないけれど、あまり成果がない (新たに知ったのはCharlie Hayesくらい)。 と書いていて気づいたのだが、自分でレビューを書いていないからかもしれない。受け取るばかりじゃなく、ちょっと書いたほうがいいのかも。 それで思い出したが、「ヒロさんはAmazonレビューを読むとアジズのSPをけっこう重要視しているのに、ブログではほぼ触れてませんね」と数年前に誰かからメールが来たことがある。 これは「ヒロ違い」で、非二元本を何冊もレビューしている別のヒロさんというレビュアーさんがいて(ここ)、その人と混同したらしい。僕はアジズもインドのディクシャ爺さんも好きじゃないし、そもそも非二元関係のレビューをAmazonに書いたことはない。 いずれにしても、Amazonには明らかに世話になっている。地元の書店を応援しなきゃと、和書はリアル書店で買ってばかりだったが、Amazon経由で知った本はAmazonで買うのが筋なのかも (洋書は今もほぼすべてAmazonだから筋は通してます)。 【おまけ】みずほさんの『オープン・シークレット』の感想、というかトニーの描写がすごい。こういう人に訳書を読んでもらえるなんて、僕は前世と前々世と (以下略) でよほど徳を積んだに違いない。 http://kamisamanokakurenbo.blogspot.jp/2017/01/blog-post.html

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グレッグ・グッド インタビュー (2016秋)

グレッグ・グッド インタビュー (2016秋)

  非二元の分野にはいろいろな表現者がいるが、この5〜6年ほどいろいろな形で接してきたなかで、自分なりの「選択眼」(単なる好き嫌いとも言う) がはっきりしてきたような気がする。 嫌いなタイプをわざわざ書くのは新年だけに控えておくとして、好きなのはオープンで軽やかでパラドキシカルでユーモラスな表現だ。そこに叙情性が加われば最高。 その意味でグレッグ・グッドは大好きな存在で、会ったことはないが、つねに興味深く見ている。 『ダイレクトパス』を読んだ人は、「彼のどこに叙情性が?」と思うかもしれないが、最後の方に紹介されているニティヤ・トリプタとアートマナンダのエピソードがまさに好例で、グルの時代から友人の時代へと普段言っていながら、グルへの思いが溢れているあの感涙話を最後に持ってくるところが、グレッグの真髄であり自由の最高の表現だという気がする。 そのグレッグが、2016年11月にAfter Awareness: The End of the Path (気づきのあと ― 道の終わり) という新刊を出した。その発売のタイミングで出版社のインタビューを受けていて、今日はそれを訳して紹介したい。 原文: Q&A: Greg Goode, Author of After Awareness == 以下、訳 == Q. 非二元というのはあなたにとってどんなことを意味していますか? それから、数多くのそれぞれ違ったアプローチがあるのはなぜなのでしょうか? A. 非二元という言葉を、私は分裂の欠如を意味するものとして使っています。言われたとおりで、非二元を認識するための方法は沢山あります。ところで、二元性とは何でしょうか。重大な二元性の一例としては、スピリチュアルの教えに出てくるような典型的とも言える反義語があります。私と非-私、自己と無自己、聖と俗、主体と客体、一と多、心と体、実体と属性、善と悪、悟った状態と悟っていない状態といったものです。 分裂、分離、宇宙的苦痛に取り組む上で、私の好きなアプローチがふたつあります。ひとつ目のアプローチは実体論です。実体論の教えは、ダイレクトパスと同じように、私の個別の「自己」と私たちの本質における他のすべてのものがこの同じ愛に満ちた認識する実体にほかならないことを説明し、示します。この教えにおいては、このひとつの実体に対する生徒の依存はどこかの時点では落ちなければなりません。それが落ちない場合には、分離と執着が増すことになります。 ダイレクトパスではこの実体は「気づき」と呼ばれていて、生徒を他のあらゆる二元性から解放するという仕事を終えると、その「気づき」は舞台から去ります。私の新刊 (After Awareness) には、これがどのように起こり得るかを示した話を載せています。私がこのアプローチを「非二元」的だと言っているのは、分裂や二元性を可能にする基盤がどこにもないということが、非常に直感的な形でそのアプローチでは示されているからです。二元性のように見えるものごとは、気づきという「一元性」におさめられます。ただし、「気づき」は言葉が多過ぎということにはなるのですが。 私の好きなもうひとつのアプローチはそれとはかなり違っています。非実体論的です。一元性の方には向かいません。あるひとつのものを他のすべてのものの基盤として提示することはありません。そのかわりに、自己や他のものごとのはかない相互依存性を強調します。このアプローチでは、ものごとは確かに存在していて完全で独立しているように見えるかもしれないけれども、実際にそれを探そうとすると見つからないということが示されます。見つからないことによって、そこに爽快で途方もない自由が見出されるわけです。このアプローチについては、Emptiness and Joyful Freedom という本で書きました。このアプローチでは「一元性」を見つけようとはしないわけですが、それでも私がそれを「非二元」的だと言うのは、そこでは先ほど言ったような典型的なものを含めたあらゆる二元性が解体されるからです。 なぜ多くのアプローチが存在しているのかについてですが、それは人によって好みや能力や言語やバックグラウンドがさまざまに異なっているからだと私は思っています。よく聞くのは、世界にはあまりにもたくさんのスピリチュアルの教えがあるという言葉です。「どうにもややこしい!」と。混乱をもたらすそうした多様性をどうにかしようとして、万人に最適なものとしてひとつの教えを薦める人がいます (たいていはその人自身の教えです)。でもそれがうまくいったことはありません! 多様性は永久に存在し続けるのではないでしょうか。私はそれが一番だと思いますよ! Q. あなたの最初の本『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』 (Standing As Awareness) には、非二元夕食会 (ノンデュアル・ディナー) での対話が収められていますね。どういう集まりだったのかについて、少し教えてください。 A. […]

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悟り一丁! ジョーイ・ロット

悟り一丁! ジョーイ・ロット

  久々にジョーイ・ロットのブログ記事の翻訳。今、ジャン・クラインの教えを中心に書かれた本を訳していて、その落ち着いた雰囲気からちょっとだけ離れたくなった。 原文: Instant Enlightenement == 以下、訳 == 即席悟り 「即席悟り」という言葉は、これ以上ないほどひどく安っぽく響く。ファストフードのドライブスルーで買えるものみたいに。 不味いコーヒーのような感じ。それか、乾燥マッシュポテトのような何か。 「即席悟りが今ならたったの1.99ドル。手軽で手間いらず。水と混ぜるだけでOK」 でも僕がここで伝えようとしているのは、即席悟りは可能だってこと、そしてそれは想像するようなものとは違うってことだ。 即席悟りと聞くと、安っぽい消費財のイメージが湧いてくるけれど、僕が言っているのは君を消費する (消滅させる) ものの話。 僕の人気書籍の無料ダウンロードはこちらから (※ 英文ページ) それは君を跡形もなく消滅させる。そしてそれは一瞬で起こる。 でも問題点がある。瞬間的なものなのだ。つかもうとしたり、自分のものにしようとしたりすると、消えてしまう。 まずは悟りを (脱) 定義しよう。 悟りを一番必死に追いかけていたころ、どうしてもすぐに悟りたいという気持ちがあまりにも強すぎて、本当の問題は何なのか、そこで求めている解決策 (悟り) が一体どんなものなのかについて、僕はじっくり考えてみようとはしなかった。 わかっていたのは、耐えがたい慢性的な心理的苦痛のように思えるものを自分が経験しているということだけだった。そして僕はそこから抜け出したかった。 最初に僕が経験しはじめたのは、奇妙な強迫観念と衝動だった。ものごとは13回繰り返さないとダメだとか、時計回りにしか回ってはいけないとか、そういうことで、まだ子どものときだ。 年が経つにつれ、それは考えられないような悪夢に変化した。その問題を解決するために自分がしたことすべてが、問題を悪化させるだけだった。 毎日何時間も瞑想をした。それとは別に何時間も祈りと詠唱をした。スピリチュアルの本を読んだ。サットサンやリトリートに参加した。 それでも事態は悪化し、良くなりはしなかった。 すべてを手放して、貨物用ワゴン車で生活しながら完璧な状態を求めて全国を放浪する風変わりな旅を始めるまで、自分は悟りを間違って定義していたのかもしれない、という考えを本当に受け入れることはなかった。 そして、ライム病にかかって文字通り動けなくなり、飢えに苦しみだすまで、悟りとは実際にはどんなものなのかを直接調べ始めてみようという気持ちになることはなかった。 多くの人たちが知らず知らずにしているように、僕も自分の目標、つまり悟りを、望ましくない状態が根絶されることとして捉えていた。 恐怖、怒り、悲しみ、不安、憂鬱、無価値感、そして望ましくないこと全部を一掃するのは可能だし、好ましいことなのだと、何も考えずに信じていた。 それが僕にとっての悟りの定義だった。それが僕の目標だった。 僕の人生のすべては、その目標を達成することを土台としていた。 その目標はなかなか達成できず、僕はそれが問題なのだと思い込んでいた。うまくいかなければいかないほど、真剣に努力を重ねた。でも最終的には努力できることが何もなくなった。あまりにも疲れ果てていたのだ。 それで、自分が避けようとしていたものと正面から向き合わざるを得なくなった。正面から向き合うだけではなく、自分の子どもたちを待ち構えるときのように腕を開きながらそれを迎え入れるしかなかった。 徹底的に迎え入れているうちにようやくわかったのは、自分が向き合っていたのは恐怖や怒りや悲しみといったものじゃないってことだった。それは自分自身だった。向き合っているのは自分自身の顔だったのだ。 これは自分の顔だ。 そしてこのことが僕の言う真の悟りだ。いろんな意味で、それは多くの人たちが想像している悟りとは正反対だ。 これはどんな気持ちや感情が生じようと、それを完全にそのままにしておくことだ。 これについてもっと探究してみたい人はこちら (※ 英文ページ) 即席悟りを得るには 悟り、つまり存在を完全にそのままにするという悟りはすぐに可能だと僕は言った。 「なるほど、じゃあ証明してみてよ」と言う人もいるかもしれない。 いいだろう。悟りとは何か (何でないか) についてここまで話してきたから、今度はどうやってそれをするか (または、言ってみればどうやってしないか) について話そう。 […]

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ニサルガダッタのバクティ

ニサルガダッタのバクティ

  インドのラマカント・マハラジを知り、彼の本を読んだり、動画を見たりしていた時期に、あることに気がついた。 ラマカント・マハラジが語る内容には、ニサルガダッタが I Am That (アイ・アム・ザット 私は在る) では言っていないようなことが含まれていた。信仰的要素というか、帰依的カラーが強いというか、ともかくニサルガダッタなら言わないだろうなあという感じのことを話す。 その頃、それと同時にニサルガダッタ・マハラジの本も読んだ。それまでは I Am That くらいしか読んでいなかったのだが、他の本も拾い読みしてみた。ラマカント・マハラジの教えに見られる帰依者的要素を探していたのかもしれない。 それで気がついたのが、ニサルガダッタ初の著書と言われている Self Knowledge and Self Realization という本の存在だった。(本の紹介ページ) その本の目次にはこんな見出しが並ぶ。「神のビジョンと帰依者」「帰依者と神の祝福」「霊的至福」「バラクリシュナへの帰依と彼の保護」。ちょっと読んでみると、バクティ色が強く、ラーマクリシュナの言葉だと言われたら信じてしまいそうだ。 そしてこれは、ニサルガダッタがグルとして人々に教え始めて以降の1963年に出された (元はマラーティー語のものを後から英語に訳した) ものだから、自己を認識する前に書かれた戯言ではないはず。 後年のニサルガダッタからこのバクティ色が消えているのはなぜなのか、それはわからない。でも、ラマカント・マハラジがこの本の出版当時からニサルガダッタの教えを受けていたのは確かで、当時はそういう色合いが濃い教えだったのだろう。 なにかの理由でその要素を封印したのかもしれない。あるいは、ニサルガダッタも聴衆の需要に応じていただけ (または聴衆や場の要請に応じた形の非個人的メッセージが自動的に発出した) とも考えられる。 ともかくそのあたりの事情は推測してもわからない。わからないけれども、こういうのは面白い。こんなことを書くと怒られるかもしれないが、けっこういい加減なものだったりするのかも。この分野では必要以上の生真面目さ、深刻さは意外と役立たないのではないかなと、そんな気もしてくる。 それと、結局のところ、教えやメッセージとして形になったものはやはり真実ではありえない。どうやっても無理なんだろうと思う。自分の腕で自分の体を宙に持ち上げようとするのと同じで、原理的に不可能だ。その不可能性こそがそのまま真実を示しているのかな、などと考えると少しニヤニヤしてしまうのだが。 などと書きつつ、Self Knowledge and Self Realization の内容を思い返していると、無心で強烈な帰依に対する憧憬の念がどうしても湧き上がってくる。そういうモードに入りやすい時期なのだろうか。     【おまけ】「神様のかくれんぼ」で、トニー・パーソンズの『オープン・シークレット』に絡めて、彼と初めて話したときの話が紹介されていた (オープン・シークレット 2)。いろいろな「先生」がいるが、無料でいつでも電話の相手をしてくれるという一点で、トニーはやはりちょっと違うと改めて思う。お金を求めたらいけないとは思わないが、分かち合うことに対する情熱には素直に感動する。 【おまけ2】「changelog.biz」でも、トニーの本の関連記事が。ネタバレ回避の配慮、ありがとうございます (笑) あることの非特別さ  

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『オープン・シークレット』発売!

『オープン・シークレット』発売!

  トニー・パーソンズの新刊が、今日12月15日に発売になった。 「神様のかくれんぼ」のみずほさんはこの原書のファンだそうで、最近の記事(オープン・シークレット)でこう書かれている。 これはトニーが書いた唯一の本です。すごく優しいトーンの本です。シンプルに、淡々と、優しく、私たちの存在の核心、幻想の核心、苦しみの核心を描写しています。 本当にそうで、どちらかといえば過激な表現が目立つ彼の対話集とは違って、かなり抑えられたトーンで語りが進む。笑える部分は皆無。その意味ではトニーの本の中では異質なのだが、この著作だけが改版、改訂を重ねられているというのは面白い。 かなり短い本ということもあって、今回は訳者あとがきを長めに書かせてもらった。トニーの他の本やトークCDからの引用もだいぶ入れて、今までに書いた訳者あとがきのなかでは一番の力作 (少なくとも量的には) 。 それと、前の記事で書くのを忘れていたが、この本のカバーの絵は出版元 (ナチュラルスピリット) の今井社長が自ら描いたものだそうだ。すごく印象的で、一度見たら忘れられない。 ということで、僕の10冊目の訳書になるが、よかったら書店で手にとってみてください。 トニー・パーソンズ『オープン・シークレット』 【おまけ】衝撃的なコーヒーを最近発見した。エチオピアのイルガチェフェやグジの味が好きで、ここ1〜2年くらいはそればかり買っていて、たいていは岡山のONSAYA COFFEEか福岡のオオカミコーヒーのものを通販で入手するのだが、ちょっと浮気して他の店を試してみて、それが大当たりだった。挽くときの香りから冷めたあとの味わいまで、完璧以上の出来で、ここまでの完成度がありえるとは想像していなかった。クリーンで、香りのパワフルさと繊細さが両立していて、何かのエネルギーが身体をゆっくりと満たす。しかも価格は相当良心的。大規模な焙煎所ではないようで、今年の分が売り切れたら困るから大声では知らせたくないなあと自分のなかのケチなおっちゃんが心配しているが、コーヒー好きな人に知らせたくなった。こちら (とっくに知ってるよ!という人、どうもすみません) 。「ああ、自分もいい仕事がしたい!」と飲むたびに思う。

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トニー・パーソンズ『オープン・シークレット』発売告知

トニー・パーソンズ『オープン・シークレット』発売告知

  『オープン・シークレット』(トニー・パーソンズ著) の発売日が12月15日に決まったようだ。 原著のThe Open Secretはかなり短めの本で、1995年に刊行されている。書き始めた当時、トニーには「解放」はまだ起こっていなくて、本が発売され、小さなトークの会を開いているうちにそれは起こったらしい (起こることではないが)。 彼の他の書籍とは違い、対話をまとめたものではなく、すべてトニーが自分で書いた文章が詰まっている。だからなのか、彼のいつものリアクション的な毒舌はどこにも見られず、わりと静かな感じで語りが展開する。 「(会場爆笑)」みたいなノリの良さとはほぼ無縁で、トニーのミーティングの雰囲気があまり出ていない気がして、僕としては一番好きな本とは言えなかった。だが、「けっこう残るなあ」と、今回翻訳をしながら感じた。 何が残るのだろうか。何かの余韻のような、懐かしさのような。決して強烈ではないが、深く染み渡っていることに気づく。 それと、この本はこの分野ではちょっと珍しいハードカバーだ。本文の紙も少し分厚い。ちなみに英国で出されているトニーの書籍のカバーには、ジョン・ミラーという画家の作品が使われている。派手さはないが、静かに印象に残る。今回の日本語版のカバーはハッとするような油絵だが、これはジョン・ミラー作品ではない。誰が描いたものでしょうか? (ヒント: 出版社) ということで、『何でもないものがあらゆるものである』とは少し違った感じで読める本だから、トニーが好きな人、興味がある人はぜひ。 『オープン・シークレット』(Amazon) *** 【おまけ】最近再び注目を浴びている(?)『ただそのままでいるための超簡約指南』を、pariさんが再読されたそうで、メルマガで取り上げていた。感謝。 『アセンション館通信』――ジェニファー・マシューズ再読 【おまけ2】このブログで継続的によく読まれているのが、じつはジョン・シャーマン関連の記事。彼のメソッドをごく最近やってみたという人のブログを発見。12月4日開始の「人体実験」シリーズ。 テキトーエレガンス

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名古屋で宝を発見

名古屋で宝を発見

  しばらく前、用事があって名古屋に行った際、ON READINGという書店に行ってみた。以前、何かのリトルプレスを通販で買ったことがあって、ロゴと店名が印象に残っていた。 郊外のビルにあるその店に入ると、本やら何やらが所狭しと並んでいる。といってもドンキ式のごちゃごちゃではなく、モノは多いけれども機能的に整っている美しい台所のような感じだ。 入ったときにいた女性客2人がすぐに去って、客が自分一人になったから、勝手にいろいろと見ることができたのはよかった。 アート系の本にはそれほど興味はないから、店の半分くらいは関心の外になってしまうが、生活系?の本の棚には全然見たこともないような本がずらりと並んでいて、かなりじっくり見てしまった。 結局、朝永振一郎の『見える光、見えない光』(珠玉という言葉は彼のエッセイのためにある!)、長沢哲夫『足がある』(50年分の自選詩集)、石倉敏明『野生めぐり』(怪書『岩魚幻談』を彷彿とさせる恐ろしくも魅惑的な記録)を購入した。 どれも、アマゾンはもちろんのこと、地元のジュンク堂でも間違いなく出会えなかった本だ。すごい棚だったなあ、いやホント。 店の奥にはこれまた「スゲー!」という感じの昭和の本が並んでいたが、なんとなく人の家の本棚から無断拝借しているような感じがして、何も買えなかった。 あと、 素晴らしい笑顔と圧倒的な色彩が溢れていて、手にとってめくってみた瞬間に「これ買おう!」と即決した写真本があった。だが裏返して値札をチラリと見て、その価格に怖気づいてしまって結局買わず。そして店を出て地下鉄に乗ってから「やっぱり、あれは…」と後悔。『INDIA is #1 “boundless”』という本。(タイトルは家に戻ってから調べた) 名古屋は他に面白いことはあまりなかったけれど (サードウェーブコーヒーの有名店にも行ってみたが、まあ今ひとつ)、ON READINGのおかげで非常に愉しい記憶 (と本) が残った。 いまさらの追加情報: リアル書店賛歌のような記事のおまけとしてはいかがなものかと思いつつ。ジョーン・トリフソンの『つかめないもの』のKindle版が発売された。紙の本よりも安いです。無料サンプル読めます。こちら

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オママゴト?

オママゴト?

  寒い日が増え、早朝の釣りがちょっとつらくなってきた昨今、ようやく晩秋恒例の探求祭りが今年も始まった気がする。 ダグラス・ハーディングの『存在し、存在しない、それが答えだ』が面白くて、その影響もあるのかもしれない。探求というのか、探究というのか。ここにない何かを探してしまう動きだから、探求の方だろう。ハーディングは探究を勧めているはずなのに。 そんなことで、ウェブの見回りをしていると、ジョン・シャーマンつながりでシロネコヤマトというブログを見つけて、何かすごくいいなあと読んでいた。 その流れでタクさんという人のブログに行き着いた。 Life is like children playing house. 人生はおままごとのようなもの。 非二元系と言われるようなメッセージの中には、「聞いてもいないのに勝手に説法するなよ」と言いたくなるような暑苦しさ、変な圧、粘着性を感じるものもあるが、これは違う。親切なのにクドさがなく、真正面勝負なのに面白い。 少しだけ勝手に引用。(ちょこっと「それ」を垣間見る。一瞥体験について) 僕がこのブログでよく、 わからんままでおったらええんやで。 ってね。 言ってますけど、 これは、一瞥体験のこともわからんでええんやで。 ということなんです。 自分が戻ってきとるんです。 自分というのは概念だってわかってるはずなのに、 そのわかってるという働き自体がもう自分なんですね。 何かを理解して、自分のものにして、 よりよくなろうとする。 この動きが自分です。 自分とはエネルギーのようなものなんです。 エネルギーとは動きです。 ただの動きなので、実体はありません。 そして、ただの動きなので所有者も行為者もいません。 外に吹く風と同じなんです。 意識という空間の中で 風が吹いたり、自分とかつて定義していた 何かしらの働きが動いているように見えます。 そしてあるのは「それ」だけです。 何かしらの働きに行為者という概念を付け加えたのが、 自分です。 エネルギーの働き自体がなくなることはなく、 その行為者がいないという見抜き。 それが「それ」であり、そこに何かを体験する誰かはいないと見抜かれます。 そこでようやく一瞥体験という幻想から抜けられるんです。 何も分かる必要がなかったんです。 わからんでよかったんです。 深刻さや重さが抜ける感じがどの記事にもある。これやこれ、それからこれもすごく好きな記事。 僕のブログを読んでいるような人なら、すでに存在を知っているかもしれないけれど、ミナトさんのブログを知ったとき以来の久々の衝撃だったので、つい嬉しくなって書いてみました。「知らなかったの!?今さらかよ!」とか言われるかもしれないが、探求一時休止中だったということでお許しを。 あと、トニー・パーソンズの『オープン・シークレット』が12月中旬頃に発売になるとのこと。発売日がわかり次第、また告知記事を書く予定。 おまけ: 訳書の中では好きな方から何番目かのジェニファー・マシューズの本について書かれたばかりの良記事発見! いま、思い煩うのをやめてみる。『ただそのままでいるための超簡約指南』

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B面が意外に

B面が意外に

  例年秋の風が吹きはじめると探求のエネルギーが強まる。 が、今年はまだそうでもない。珍しく回遊魚釣りが絶好調なのも関係しているのかもしれない。意識は常に海にあり、一番チェックするサイトは釣り場の天気予報、目を閉じればスパッとウキが海面に消える場面が浮かぶ、という状態がまだ続いている。 もしくは、探求の局面が今までとは変わったんだろうか、とも少し考えてみるが、どうもそういう辛気臭い(©とっくん)ことに対する関心が長持ちしない。 まあ、ほんの数年前には「このくそ忌々しい探求のことを忘れられたら、どんなに幸せだろう」と強烈に思っていたから、今の状態は理想的とも言える。 そんな感じで、ノラ・ジョーンズのこんなかっこいい曲を聴いていると、何も求めることなんてない気がしてくる。 (とか書くと、思いっきり探求が戻ってくるというのが今までのパターン 笑) === 追記: NHK (山梨) の夜のニュースで、今日午前に発生した中央道須玉インター付近での単独事故で永留祥男氏が亡くなったことを知った (「祥」は正しくは「示」に「羊」)。「北杜市高根町在住の作家」とニュースで言っていたから、『黎明』の著者葦原瑞穂氏であるとされている永留さんと同じ方だと思われる。ただただ驚いている。(葦原瑞穂氏関連記事1、2) 追記2: 以下はYBS(山梨放送)のニュースサイトからの引用。「2日午前9時40分ごろ、北杜市須玉町の中央道上り線で、走行車線を走っていた乗用車が道路左側の斜面に衝突。ガードレールなどにも衝突し大破した。この事故で運転していた北杜市高根町の作家・永留祥男さん(63)が胸などを強く打って間もなく死亡。中央道上り線は事故の影響で長坂~須玉IC間が2時間半にわたって通行止めとなった。」

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その一歩、交通整理、セラピー

その一歩、交通整理、セラピー

  しばらく前まで、トニー・パーソンズのThe Open Secretという書籍の翻訳をしていた。彼の本はそのほとんどが対話の記録だが、これは書かれたもので、短いエッセイが集められている。 トニー・パーソンズというと、「私はいない」「何も起こっていない」というのがメッセージの核心であるようにも聞こえるが、どうなのだろう。 《それ》はどこか別のところにある超越的な何かじゃない。この部屋から出るときの君の一歩がまさに《それ》なんだよ。その一歩がね。 ミーティングでトニーがそんなふうに言っていたことがあった。 その言葉を聞いた瞬間、仕事のことで頭がいっぱいになっていたあるとき、小さな息子が何か話したそうな雰囲気で近づいてきたのに、顔も見ずに「ちょっと忙しいから、またあとでね」と言ってしまったときの感じを思い出して、泣けた。 よそで探してしまうことの哀しさ。呼びかけへの鈍感さ、見逃し、後回しという罪。 「私はいない」「非二元」は何かの方便であって、「ほら、これなんだよ、ちゃんと見てよ」という単純な訴えがトニーのメッセージの中心なのではないだろうか。どうだろう。 ところで、だいぶ前のことになるが、高木悠鼓さんが出された『動物園から神の王国へ ― サルの惑星のような星で、平和に生きるために』という本を読んだ。 『人をめぐる冒険』が気に入っている人であれば、間違いなく楽しく読めると思う。僕はリチャード・ドーキンスや竹内久美子的な整理の仕方はあまり好きではないから、第一部はそれほど楽しめなかったのだが、第二部が大当たりだった。 第二部「サルの壁 人の壁」の一章「知性の7段階」は目ウロコそのもので、高木さんの洞察に唸った。非二元の認識を得ているはずのグル同士の対立がなぜ起こるのか、感じが悪い人が一瞥をするとさらに感じが悪くなるのはなぜなのか、一見矛盾した行動を平気でとれる人がいるのはなぜなのか、といった僕の抱えていた疑問にすっきりと答えている。 自分自身についても、何かに開かれるような経験が起こったあとで、条件付けがどことなく強まったり、何かに戻されるような現象が増えたりすることに不快感を感じることがたまにあったのだが、そういう動きについてもだいぶ納得した。 洞察の鋭さが光りまくっている本で、読んでいると「イタタタタ」という部分も多いから、全部が愉快かというとそうでもないが (それにここまで鋭く見られていると思うと、つぎにお会いするのが怖くなる 笑)、『人をめぐる冒険』でもそうだったように確実に楽になった。 それと同時に気づいたのは、こうした「交通整理」を非常にありがたく思う反面、そういうものを全部投げ出したいという気持ちもどこかにあるということ。 なんでしょうね。整理されずに (自分でも整理せずに)、無条件に受け入れられたいという気持ちが強く残っている気がする。自分とは何であるかを一度見るだけで解消するような話ではなく、心理的なセラピーの出番なのかもしれない。(などと考えるのは、「知性の7段階」を読んだ影響もありそう) トニーは普段は心理的なセラピーを全否定しているが、The Open Secretでは意外なことに自分とセラピーの関わりについてけっこう書いている。非二元云々は抜きにして、その部分はけっこう面白かったです。

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暑さの日々

暑さの日々

  お盆が近づいてきた。 この時期になると、毎年そうだが探求モードが弱めになる。海で回遊魚が釣れ始めるから意識がそっちに向かう、ということもあるのだろうが、基本的にギラギラの太陽と探求は自分の中では両立しない。 先週は子どもと伊豆に行って海水浴と釣りを楽しんだが、海につかってバタバタしていると、ただの生き物になる。溶ける。生き物未満の何か。何かでさえないかもしれない。 ダイレクトパスの訳書が出たばかりなのに、こんなことを書くと怒られそうだが、頭を使う探求などできるわけがない。太陽がまぶしすぎる。 そのかわりに、バクティ的なものに対する関心が少々高まっている。 以前は、バクティというとハレクリシュナ型のキールタンがスタンダードだと思っていた。(こんな感じのもの) でも、ヒンドゥーの神々は自分にはそこまでしっくりこない。うっとりしながらバジャンのテープを聴き続けていた時期もあるが、今は無理だ。そこまで夢中になれない。どちらかと言えば、テゼ共同体の歌のような欧風のものが今は好みに合う(こんなの)。 ただ、これでもちょっと具象的すぎる気がする。人工的とまでは言わないが、文化的色彩が濃すぎるのだ。バクティといっても、神像や歌のような具象性が高いものではなく、何かもっと透明で爽やかな帰依対象はないものだろうか。 案外、太陽崇拝とか、自然崇拝的なものがいいのかもしれない。いずれにしても、自分を投げ出す気持ちの良さに惹かれる。 話は違うが、いつも面白い「SHIROWの自由帳」で、「みしろ」について書かれていた。ジョン・シャーマンのメソッドに関連した話で、この記事の「※ここから追記」以降にある。 ジョンのメソッドをやってみた人は、「そういえば」と感じるのではないだろうか。僕自身も、当初感じていたギャップ、距離、重み、もしくは方向を変える「よっこらしょ」的な感覚がだんだん少なくなっていることに一時期気づいたことがあった。 そのときに面白いのは、「以前はこう感じたはずだけど」と思ったときに、「でも、その感覚の記憶は今どこにあるのかな」という疑問が出てくると、なんとなく「ニヤっ」としてしまうことだ。何の「ニヤっ」なんだろうか? 谷崎テトラ氏が昔どこかで書いていたアルカイック・スマイルのことを思い出す。ギュッという感じの笑み。 ところでまた別の話だが、Youtubeを見ていたら、トニー・パーソンズのミーティングで数年前によく見かけていた人たちがいつのまにか「先生デビュー」をしていることに気づいた。この人や、この人。他にもいるのかもしれない。 動画の出だしを見ていると、「まだこの形式でやってるの?」と少し呆れてしまう感じがする。わかっていない(と想定されている)人たちに対し、すまし顔で「説教」を垂れている。冗談じゃなければ、何なのだろう。 そんなことをちょっと考えていたら、「悟っている人 vs 悟っていない人」という冗談としてしか成立しないこの構図について、高木悠鼓さんのメルマガに劇的にわかりやすい説明が載っていて、感動した。「神の実験室通信69号」(2016年7月31日) 引用したい (一部改行を改変)。 さて、話は少し横道にそれるが、 「実験の会」を主催している私(高木)に、「あなたは特別な悟りの境地に到達したのですか?」 とか、あるいは「あなたは何か特別な悟りの経験をしたのですか?」みたいな質問を向ける人がたまにいる。面と向かって尋ねる人もいれば、遠回りに尋ねる人もいれば、本当は尋ねたいけど黙っている人もいる。 前にも書いたことがあるが、「あなたは悟っていますか?」とか「あなたは特別な悟りの境地に到達したのですか?」というような質問は、考えてもみれば非常に滑稽な質問だ。 なぜそういった質問が滑稽かと言えば、「覚醒、悟り、気づき」と一般に呼ばれているものは、「あなたは悟っていますか?」という質問をする人の側、主体にしかないからであり、自分が見るどんな対象物(人)も、「悟ったり、悟らなかったり」することはできないからである。 なんとわかりやすい! そして、「先生がた」に対するもろもろの違和感もすっきり片付く。 高木さんの訳されたダグラス・ハーディングの To Be and not to be, that is the answer は、今年出版される予定だそうだ。ちょうど夏の暑さが終わって探求モードが戻ってくる頃に発売というタイミングの良さ。寒い風が吹き始めてからになるとしても、それはそれでありがたい。

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フィリップ・ルナールさんの話 (4)

フィリップ・ルナールさんの話 (4)

  その翌々日だったか、フィリップの許可を得て、また彼の家に向かった。 その日にした話については、じつはあまりよく覚えていない。実際、イギリスでサッカー記者をしている息子さん (僕と同じ年代) の話をしていたくらいだから、半分は世間話だったのかもしれない。 ひとつ覚えているのは、アレクサンダー・スミットの否定的な側面について彼が書いたエッセイの話題だ。そのエッセイのなかで、アレクサンダーにも女性関係、金銭関係、そして権威的な面で問題があり、それはグルと弟子という力学のなかでは簡単に生じてしまう性質のものだから、教える側も教わる側も十分注意すべきであるとフィリップはユーモア混じりに訴えている。 アレクサンダーの分厚い対話集にかなり熱心な感じの序文を書いている人にしては、ずいぶん率直な批判だなと思い、よくそんな勇気がありましたね、と尋ねると、「あれは他の生徒たちからはずいぶん批判された。書いたことは今でも正しいと思っているけれども」ということだった。 ただし、グル的な存在の意義についてはフィリップは大いに認めていて、認識が伝播するという側面に関しても肯定的なようだった。それでも、依存的な関係が生じてしまえば、そこには真理探究とは別の力学が生じてしまうので、やはり注意深さは必要だという見方を示していた。 そんな感じでいろいろと話しながら、自分は何を求めてここに来たんだろう、と思っていた。Holy Sequenceの第二以降を「極めた」人がどんなふうなのか実際にたしかめてみたかったのか、それとも何かの方法を教えてほしかったのか。 最初の意図がどうであったとしても、その日の帰り道に感じていたのは、自分で見つけるしかないんだなという当たり前のことだった。もちろん対話や本には意味があるし、ミーティングにも娯楽以上の意味があるはずだ。それでも、最後は自分で見るしかない。どこかに何かを預けられると思っているかぎりはだめだ。 そんなことを考えていると、妙にすっきりして、それが心地よかった。 おしまい。

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フィリップ・ルナールさんの話 (3)

フィリップ・ルナールさんの話 (3)

  話は戻るが、フィリップの書棚には大量の本や資料が並んでいて、部屋に足を踏み入れた瞬間に、「あなたは大学の教授か何かですか?」と質問したほどだった。 背表紙を眺めていると、最近はこれが気に入っているんだよと言いながら、何冊かの本を見せてくれた。 盤珪の語録の英語版、イブン・アラビー関係の本、トゥルク・ウルギェン・リンポチェのAs It Isといったもの。禅ではなくチャン (Ch’an) の方が好きだとも言っていた。 「ニサルガダッタやアートマナンダについて非常に造詣が深いし、エッセイの中でも、自分はニサルガダッタが属していたナブナート・サンプラダヤの『オランダ分派』にいると言ってもいいと書かれていたので、ヴェーダーンタが一番好きなんだと思っていましたが」と聞くと、「どちらかと言うと、非二元の普遍性を重視している。だから、インド系だけ、スーフィーだけ、ゾクチェンだけという接し方は自分はしていない。とても豊かな世界だから。逆に文化的なカラーリングが強すぎると、それによって失われたり隠されたりする要素もある」という答えだった。 そのあとで、前の記事で書いた Holy Sequence の話に入ったのだが、第一に優先すべき点については具体的にどのように教えているのか?という質問に対しては、こんな感じの答えが返ってきた。 「教えるというよりも、今そうなっていることを真剣に見ることだ。自分はどこから見ているのだろうか、と問う。しっかり見る。見ている対象ではなく、見ている元、それがなければ絶対に見ることは起こらないそれを見ることだ。そこから外れないようにするのが私の役目だ」 フィリップ自身はアレクサンダー・スミットのサットサンに通っていた80年代に、真剣に探求しようと決め、家族からしばらく離れ、数冊の本だけを持ってスペインの田舎を一人で旅したらしい。その途中で決定的な体験をして、自分が何であるか、そして世界の本質がわかったそうで、それは深まるということが絶対にありえない理解、認識だったと言っていた。 その話しぶりからすると、真剣さ、情熱が何よりも大切だというふうに聞こえたが、実際この「第一に優先すべきこと」に関する話をするときにだけ、フィリップの声は急に熱を帯びて、人が変わったように力強く響く感じがあった。 その4へ続く。

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フィリップ・ルナールさんの話 (2)

フィリップ・ルナールさんの話 (2)

  フィリップは長いことサットサンを続けていたらしいが、何年か前に中断。だが、昨年後半に再開したという。 ちょうどいいタイミングだと思いつつ連絡をとってみると、毎週末のサットサンはすべてオランダ語なので、オランダ語がわからないのならば参加はあまり薦められないという返信だった。 けれども、「家に来て個人的に話をするのならいいですよ」とも書いてあった。それで遠慮無くそのオファーに飛びついて、1月にオランダへ飛んだ。トニー・パーソンズのレジデンシャルに参加して以来、たしか3年ぶりのヨーロッパだ。 フィリップの家は、ユトレヒトから列車で20分ほどの静かな駅から徒歩7〜8分程度の郊外の住宅地にあった。 英語ネイティブでない人とのあいだでよく起こりがちなことだが、僕の英語はあまりよく通じず、いろいろと言い回しを変えながら一生懸命しゃべった。Holy Sequenceの第一の段階のあと、実際に何をどうするのかを聞いてみたかった。 すると、そういうアプローチはあまりとっていないという答えだった。以前は、フィリップが長いあいだ傾倒していたスブドの教義にもとづいて、ラティハンという一種の修行を生徒と一緒に続けていたらしい。それだけでなく、ゾクチェンの修練手法や他のバクティ的な行法も用いながら、条件付けの部分をどうにかするということも熱心にしていたそうだ。 だが、今はそれはほぼ教えていないという。ラティハンも瞑想もサイコセラピーも役に立つのはたしかなのだが・・・、と言葉が止まった。 つまり、第一にすべきこと、自分とは何かを実際に見ることをとにかく重視していて、今はサットサンでもその一点に集中するようにしているらしい。 それが文字どおりのHoly Sequenceであり、順番を間違えて第二、第三のことをいくらやっても駄目なんだ、という部分が強調されたように思う。 ということで、第二以降の部分をきちんとカバーしていて、そこを放置しないという点が素晴らしいと思った、という僕の感想は結果的にはだいぶ的外れだった。 じゃあ、ということで、その第一の部分はサットサンなどで実際にはどう指導するのでしょうか?と尋ねた。 その3へ続く。

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フィリップ・ルナールさんの話 (1)

フィリップ・ルナールさんの話 (1)

  グレッグ・グッドの『ダイレクトパス』の翻訳を進めながら、シュリ・アートマナンダ関係のことを調べていた時期があった。 その過程で、それまでは名前しか知らなかったフィリップ・ルナール (Philip Renard) という先生に関心を持った。ニサルガダッタ・マハラジのもとで目覚めたとされているアレクサンダー・スミット (1998年没) という人がいるが、その人を師と仰ぐオランダ人で、本をオランダ語で何冊か出している (今のところ英語の本はない)。 フィリップは、‘I’ is a Door という4部構成の作品をラマナのアシュラムの機関誌 Mountain Path に以前発表している。オリジナルはオランダ語だが、それを関係者が英語に訳したようだ。ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、そしてシュリ・アートマナンダのそれぞれの教えにおける「I (私)」について論じているもので、それだけを数年前に読んだときはあまりよくわからなかった。 昨年の後半にその作品を再読すると同時に、彼の別のエッセイ (が英語に訳されたもの) をいくつか読んでみて、そのなかで示されている Holy Sequence (聖なる順序) という考え方に強く関心を持つことになった。 いま考えると、それはジョン・シャーマンの「自分自身を見る」メソッドを初めて実践してから半年くらいたったころで、混乱がいよいよひどくなっていた時期だったと思う。それで、何らかの指針のようなものを求めていたのかもしれない。 どんな混乱かは今もよくわからない。たぶん、どんな混乱かを説明できたらそれは混乱ではない気がする。 Holy Sequence とは何かといえば、それはまず自分とは誰なのか、自分とは何なのかを知ることが一番で、それ以外のことはその後でという考え方だ。逆に言うと、「それ以外のこと」を否定しないし、「その後」に何かすることがあるという意味にもなる。 昨日見たばかりのリチャード・ラングのインタビューでも繰り返し語られていたが、「自分とは何かを見ること、自分とは空っぽの空間であってどんな属性もないというのを見ることは本当にシンプルで、いつでも誰にでもできる」。それはたしかだと思う。それが強烈な至福体験や「別のリアリティ」として経験されるか、それとも当たり前の事実として静かに見られるかは別としても、そのこと自体はまったく争いようがないほど明らかだ。 それでも現に混乱が生じているとしたら、それは「見ること」だけでは十分ではないということになるのではないか、そんなふうに感じていた。 それが、第一に優先されるべきこと、そしてその後に起こることについて長年教え続けてきたフィリップ・ルナールという人に会いたくなった理由だったように思う。 それだけでなく、彼の書いたものを読んでいて、バクティ的な要素を感じたことも大きかったかもしれない。具体的にどの部分が、ということはないけれども、明け渡しの美、みずからを捧げきる潔さのようなものが端々に滲んでいる気がした。 その2に続く。

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